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9月, 2024の投稿を表示しています

TWEET「かつ消えかつ結びて」

 以来、事あるごとに「般若心経」を唱えている。いささか偏執狂的である。  口をついて出てくる経文は、「かつ消えかつ結びて」、時の流れ、 “いま”という刻を感じる。  捕らえどころのない “いま”を手中にするには、「般若心経」に沈潜するしかないだろう。沈潜するとは、「色こそ空なれ」,「空」となれ合う ことである。  私は、「かつ消えかつ結」ばれる経文の一音節を、聞くともなく聞いている。  そしてまた、2023/06/06(鑑真和上の命日)に唐招提寺の本堂で昌和した、いのちの生動の調べとでもいうべきリズムに身を委ねている。 「明の董其昌が『画禅室随筆』のなかで、「いわゆる宇宙、手に在るもの」というゆえんであろう。禅や念仏は、その場合手中に生動する宇宙・自然のいのち(無量寿)を呼吸するパイプにほかならない」(『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社 8頁)  わずか18日間の「般若心経」体験ではあるが、確かにこころに響いている。「いささか偏執狂的」であり続けることに意義がある、と思っている。  断片が続きます。

TWEET 「ヌスビトハギ」

 ヌスビトハギは、可憐な花を咲かせる。  そしていち早く、我が家の庭に秋の訪れを告げる。  が、花期を終え結実すると、 “ひっつき虫”になり、どこにともなくひっつき、たいへんな思いをすることになる。  一昨日と昨日の夕方、花期を迎える前の、 ヌスビトハギを刈った。花を愛で、結実する前に刈るのが風流を解すというものだが、私にはその器用さがない。 全身 “ひっつき虫”に取りつかれた、自分の姿を想像するのはみじめである。 「和名は、果実が泥棒の足跡に似ると言う。奇妙に聞こえるが、牧野富太郎によると、古来の泥棒は足音を立てないように、足裏の外側だけを地面に着けて歩いたとのことで、その時の足跡に似ている由。これは牧野富太郎による説」(ウィキペディア)  泥棒の抜き足差し足、ということか。 「萩(はぎ)の花くれぐれ迄もありつるが月出でて見るになきがはかなさ」  実朝の歌は美しい。  断章が続きます。

TWEET「月あかり」

「うちの店では、すべて純国産の『東海製蝋 』さんの蝋燭だけを置いています」 と、「田辺佛具店」さんに、燭台を求めにお邪魔した際にお聞きした。一年あまり前のことだった。蝋燭といえば「カメヤマローソク」とばかり思っていた私には意外だった。  その後、しばらくの間,「東海製蝋」さんの蝋燭と戯れた。 「月あかり」は、美しい。 「専門店向け。当社の最高級ブランドです」 「品質は高融点、高純度の原料を使った最高品。衣裳(意匠?)は伝統的な風合いと彩りを基調に、あくまで純和風に仕上げました」 「高融点」とは燃焼温度が高く、「高純度」とは、炎は蝋本来の輝きを放つということであろう。  私の手元には、小さな細身の「月あかり十分」しかないが、純白で硬質で、他の蝋燭 との違いは明らかである。炎は細身の蝋燭 と調和し気品があり、直立し揺らぐことなく鎮まっている。また、その透明感のある灯りは上品である。 「 月あかり」の名にふさわしい逸品である。  今回 はじめて 、蝋燭の “灯し比べ”をした。 「月あかり」,「雪だるま」,「華むらさき」,「星のしずく」,「キューブ・テン」, 名は体を表す。蝋燭職人の方たちの想いが名前に反映されていることを知らされた。  父の買い置きの蝋燭と線香がある。「月あかり」を知ったいま、始末屋の私としては、始末するほかない。また、微煙・微香の線香は線香とはいえず、こちらも始末し、たとえば、東大寺参詣時に、興福寺、唐招提寺、室生寺参詣時に求めた線香を焚こうと思っている。  仏壇に供える日用品だからこそ、大切にしたいと思う。  断片が続きます。