TWEET「散財もまたよし_生音について」

先ほど届いた、「PROCABLE」さんからの「商品説明書」には、
◆ 万人が好きな普遍的な音
「そこには音の好みというものは、存在するようで、ほとんど存在しません。
 あくまでも生音が基準で、それに最も近いものを良しとしますから、好みの問題とは別の次元になります。とても生々しく、聴くというよりは、目前に見えている音になります。本当の音は、目の前に、実体として、見えます。
 生音に近いものを良しとする理由は、「音」というものが、「生音」に近い場合、はじめて本当のバランスや音質が、人間の耳に、より正確に判断できるからです。レコーディングは仕事ですから、完璧さを要求されるがゆえです。そしてその音は、怖いくらいに美しく、普遍的な音です。」
との記載があった。

「本当の音は、目の前に、実体として、見えます。」

「そしてその音は、怖いくらいに美しく、普遍的な音です。」
の二文から、青山二郎を思った。ただし、上記の文は、「音楽」ではなく、録音と再生における「音」の創造領域ついての記述であり、様相を異にしているが、大変なことが書かれていることに間違いはない。


白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫 
人間でも、陶器でも、たしかに魂は見えないところにかくれているが、もしほんとうに存在するものならば、それは外側の形の上に現れずにはおかない。それが青山二郎の信仰であった。
(中略)
 何事につけジィちゃん(青山二郎)は、「意味深長」という言葉を嫌っていた。精神は尊重したが、「精神的」なものは認めなかった。意味も、精神も、すべて形に現れる。現れなければそんなものは空な言葉にすぎないと信じていたからだ。これを徹底して考えてみることはむつかしい。生きることはもっとむつかしい。金持になった日本人は、これからは精神の時代だ、などと呑気(のんき)なことをいっているが、相も変らず、夢二の夢から一歩も出ていはしない。そのようなメタフィジックな物言いは、ごまかすのにはまことに都合のいい言葉で、お茶は「わび」の精神の蔭(かげ)にかくれ、お能は「幽玄」の袖(そで)に姿をくらまし、お花の先生は、蜂(はち)みたいに花の「心」の中で甘い汁を吸う。形が衰弱したからそういうところに逃げるので、逃げていることさえ気がつかないのだから始末に悪い。(55-56頁)


「PROCABLE」さんにお願いした、
「BELDEN 82760」(2m)
が、明日届く予定である。