「2020年度 愛知県公立高校入試 国語_長谷川眞理子という新人」

 以下の文章は、2020/03/09 に行われた愛知県公立高校入試「国語 大問1」で出題された、
◇ 長谷川眞理子『世界は美しくて不思議に満ちている ー「共感」から考えるヒトの進化』
からの引用である。

 自然科学とは、さまざまな自然現象を論理的に理解しようとする試みである。それやこれやで、私は、ごく小さいころから自然に興味が湧き、結局は生物学の研究をする学者になった。その間、ニホンザル、チンパンジー、ダマジカ、ソイシープ、クジャク、タニシなどを野生の状態で観察し、そして、これらの動物が食べる植物なども研究のために観察してきた。そうした揚げ句に得た結論は、生物はみな、一生懸命生きている、ということだ。何か意味や価値があるから生きているのではない。生きているからこそ、意味や価値が生まれてくるのだ、ということである。

(中略)
つまり、もう生きることを「投げている」ように見える個体は一匹もいないのだ。
(中略)
 私たちのからだと脳の意識下の部分は、何がなんでもからだを生き続けさせようとして働いている。その働き自体は意識に上らないので自分ではわからないが、呼吸すること、体温を維持すること、痛みを回避すること、栄養とエネルギーを取り込むこと、などなどは、私たちのからだと脳が、それこそ一生懸命になって取り組んでいる、第一の業務である。意識とは、そのてっぺんで、そういう作業全体を認識している部分だが、それは氷山の一角に過ぎない。ところが、人間の自意識は、その氷山の一角の部分であるにもかかわらず、「生きるとは何か?」「生きている意味は何か?」といった「哲学的」疑問を生じさせる。この自意識は、からだと脳が自分を懸命に生き続けさせているからこそ、こんな疑問を(ぜいたくにも)問いかけるゆとりがあるのだという事実を知らない。
 こんなことのすべてを私がわかるようになったのは、人間以外の動物の生き方を詳細に観察したからである。


 長谷川眞理子が得た「結論」は、得たと同時に「哲学」に昇華した。それは「哲学的」遊戯とは似て非なるものである。
 井筒俊彦がイスラームの神秘主義(スーフィズム)を代表するイブン・アラビーらの実在体験とその後の哲学的思惟を精緻に紐解き、広大な東洋哲学の局面を私たちの前に展開してくれたものと同じ風合いのものである。
 「からだと脳の意識下」のことは「からだと脳の意識下の部分」に任せ、「からだと脳が」「一生懸命になって取り組んでいる」ならば、私も負けじと「一生懸命になって」、
「ぜいたくにも」「ゆとり」を遊び尽くそうと企図している。「遊鬼」ということである。遊ぶとは一大事である。
 長谷川眞理子は、私にとってまったくの新人であった。受験生諸君のことはいざ知らず、私にとって受験国語は今回も有意味であった。

そして早速、下記の書籍を Amazon の「ほしい物リスト」に追加した。
◇ 長谷川眞理子『世界は美しくて不思議に満ちている ー「共感」から考えるヒトの進化』青土社
◇ 長谷川眞理子『生き物をめぐる4つの「なぜ」』集英社新書
◇ 長谷川眞理子,山岸俊男『きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」』集英社インターナショナル

また、以下、

小林秀雄「鍔」_2013年度センター試験「国語」
です。