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TWEET「出し殻」

 2026/02/13「小川会計事務所」さんでお茶をいただいた。  水色(すいしょく)といい香りといい、また まろやかでほんのり甘く、すっかりお茶に魅せられてしまった。  その後 小川先生から、ゆうパックでお茶が届けられ、そのご厚意に 早速お礼状を書いた。  いま 茶器を少しずつそろえ、お茶の飲み比べをして楽しんでいる。  珈琲豆は冷凍保存した。 2026/03/14「浜名湖サービスエリア」内の「渋川園」さんで、 静岡茶 / 極上 /  特撰銘茶           「憩」 春夏秋冬、自然の うつろいのなかで 人と人とのふれあいを 味わい深く彩る 香り高き、緑の潤い。 憩いの茶。 と書かれたお茶を目にした。とりあえず、買うしかなかった。  しかし、翌日には、包装も解かないまま に 叔父・叔母 に差し上げてしまったが、もうじゅうぶんに楽しんだ後の出し殻だったので、なんの不足もなかった。

P教授より「リルケの時間」

「コクトーは当時の自分について、「沢山のことを知っていると思い込み、うぬぼれた青春の手の施しようのない無知の中を生きていた。名声が私に勘違いさせ、挫折よりも質の悪い名声があることを、この世のすべての名声に匹敵する一種の挫折があることを知らなかった」と振り返っている。  ずっと後になって、毎夜遅くまでランプが灯っていた部屋の住人がリルケだったことを知り、その頃のリルケに遙かなる友情をコクトーは抱く。リルケの部屋のランプが灯っているのをかつて見たことがコクトーを慰める。しかし、当時は、その灯りがその下で自分の思い上がりを焼き尽くせという合図だったことを理解することはなかった。」 「中川一政は50代半ばで、『リルケの時間』に気づいたわけです。」 「つまずきの石」は、いたる所に転がっていそうですね。 どうもありがとうございました。

ブルーノ・ワルター「田園」

2016/02/26 に、 ◇ バーンスタイン「田園」 を購入し、繰り返し聞いていました。しかし、ワルター盤の「田園」のことが、ずっと気になっていました。Amazon の下記の「商品の説明」や「カスタマーレビュー」が頭を離れませんでした。 「商品の説明」 内容(「CDジャーナル」データベースより) ワルターの演奏には常に清楚な精神性のようなものが宿っている。思い入れとか野心とかがなく,スッと耳に入ってくる。端正な響きと肩の力のぬけた表現で刻みこまれる晴朗にして健全なベートーヴェンである。「田園」の原点ともいうべき演奏だ。 体調がすぐれず、寝たり起きたりを繰り返していた時期のことでしたので、他にこれといって楽しみもなく、  ブルーノ・ワルター 「ベートーヴェン:交響曲第6番『田園』」 コロンビア交響楽団 ソニー・ミュージックレコーズ を 2016/03/24 に購入しました。衰弱しており、ワルター盤とバーンスタイン盤を聴き比べる気力もないままに、明けても暮れても、寝ても覚めても、ワルターの「田園」の心地よさに身をまかせていました。そんなこんなで三か月が過ぎ、梅雨時を迎え、久しぶりにバーンスタインの「田園」を聴きました。その速さに戸惑いを覚えました。それは MacBook Pro やその他の周辺機器の不具合に起因するものではないか、という疑念を抱いたほどでした。バーンスタインの「田園」は目まぐるしく、せわしなく、性急です。先を急ぎ、待っていてくれません。置いてきぼりを食います。演奏によってこうも違うものか、という愚ともつかない稚拙な感想をもちました。バーンスタインのおしゃべりと、ワルターの寡黙。しばらくの間、バーンスタインの「田園」はおあずけです。 Amazon「トップカスタマーレビュー」より、 5つ星のうち 5.0 とにかく聴いて欲しい! 投稿者 ねじまき鳥 投稿日 2007/3/21  これが50年前の演奏とは信じられない。音質が素晴らしすぎる。まさに奇跡としか言えません。なんと美しく、温かく、幸福感に包まれた演奏だろうか。40分があっという間に過ぎる。聴き終わった後は、音楽って本当に素晴らしいという喜びで満たされる。生きる希望さえ湧いてくる。クラシックに興味がない人や、辛い目に合って絶望を感じている人に是非聴いて欲しい一枚です。 5つ星のうち 5.0 ワル...

飯田重祐「渓流ミノーイング」

  飯田重祐さんの新作「Stroud」は、ハイフロートのミノーです。サーフェース、サブサーフェースでのゲームです。ブラックバスは水面を割って出てきます。動かす楽しみのあるルアーです。信頼できるから釣れるまで投げ続けられます。換言すれば、信頼できないルアーは釣れるまで投げ続けられないから、釣れないだけかもしれません。 以下、パッケージより、 「攻めのハイフローティングミノー」 「釣り上がりながらフローティングミノーをステディリトリーブしてロッドでアクションを加える、それが渓流ミノーイングスタイルのスタートでした。ヘビーシンキングミノーが全盛ともいえる昨今のトラウトシーンにおいても、フローティングミノーの良さは変ることはありません。よりライトタックルで楽しむことができる軽快感は秀逸で、着水音の静かさは大きなアドバンテージになります。ミノーと言ってもフローティングの場合、陸生昆虫をイミテートすることが少なくありません。ベイトの形状というよりその状態を模すイメージです。例えば落下したり、水面や水面直下を走る昆虫をロッド操作で演出できることが強みなのです。"Stroud"の内部構造はいたってシンプル、大きな空間とバランスを保つ最小限のウエイトにレスポンスを高めるリップを装着しました。ノスタルジックでなく機能的に優れた攻めるハイフローティングミノー、水面に浮いていることの強みで水面を歪ませることの面白みをぜひ体感してください。」 「Angler's Republic」さんから今春発売されたばかりの、飯田重祐さんの新作ミノー「Stroud SR-43Fイトウ カラー」で、2015/04/22 に初めてバスを手にしました。  渓流ミノーイングの前哨戦としての “バス釣り ” でした。

テンカラ「あれやこれ編」です。

テンカラは日本の伝統釣法ですので、伝説の名人が各地にいて、独自のテンカラを確立し、自然とともに暮らしていますから、読んでいて楽しいですね。 次は、 戸門秀雄『職漁師伝 渓流に生きた最後の名人たち』農山漁村文化協会 (各地の職漁師 ( 職業川漁師 ) が代々伝承してきた共存の知恵・独自の掟から、いまは亡き名人たちの釣技・釣具、魚を守る闘いに至るまで、彼らの生き様を通して、流域ごとに異なる奥深い職漁の世界を鮮やかに描き出す。) を読もうと思っています。 DAIWA VIDEO ◇ 片山悦二さんのテンカラ釣りです。 ◇ 「ジャンルで選ぶ」→「渓流」から入ってください。 http://www.fishingch.jp/index.html ◇ 「はじめようテンカラ!基礎編」 ◇ 「はじめようテンカラ!実釣編」 ◇ 「 THE FISHING  テンカラ釣りで渓流に遊ぶ」 ◆ 大切なことはポイントの見極め方とキャスティングの精度ですね。注意して見てほしいのはポイントを攻める順序です。立ち位置より遠くのポイントから手を着けると手前のポイントがつぶれてしまいます。片山悦二さんは、渓 ( 流 ) 魚にとって「毛バリはエサです」と書かれています。釣れるには釣れる、釣れぬには釣れぬ訳がありますね。 「一所懸命」に遊ばないと面白くありませんね。白洲正子さんには『遊鬼』という題名の本がありますが、「遊ぶ鬼」と化したいものですね。「釣り」を「釣道」にまで高めたいものです。 『テンカラ釣りがある日突然上手くなる』を書かれた片山悦二さんは、ダイワのフィールドテスターをされています。かたや、『超明快 レベルラインテンカラ』を書かれた石垣尚男さんは、シマノのインストラクターをされています。 片山悦二さんのブログより 「1990年ころに、それまで築き上げてきた、レベルラインテンカラをビデオ化しました。軽いラインを使い、毛バリを沈め、誘いを掛けず、手感でアタリを取る。当時では非常識な釣法だったのです。」 「特殊な人間の釣りで、誰にでもできるものではないとか、あんな軽いラインを投げるのは一般の釣り師にはできないとか、とにかく変人扱いされていました。」 「ところがです。(中略) 当時そんなことを言っていた人(石垣尚男さん)が、いつの間にか、元祖レベルラインテンカラのタイトルで、書籍やDVDを出版して...

テンカラ 「書籍編」です。

実釣の経験はありません。新地開拓中です。悪しからず…。 ◆下記、書籍です。 ◇ 片山悦二『テンカラ釣りがある日突然上手くなる (釣力 UP!壁を破る超常識シリーズ)』つり人社 ◇ 石垣尚男『超明快 レベルラインテンカラ』つり人社 ◇ つり人社書籍編集部『長野「いい川」渓流ヤマメ・イワナ釣り場 』つり人社 ◇ つり人社書籍編集部『岐阜「いい川」渓流アマゴ・イワナ釣り場 』つり人社 ◆下記、雑誌です。 ◇『山と釣り 2015 vol.1 いざ、世界で一番美しい源流へ。 特別企画テンカラ釣り入門 』地球丸 ◇『渓流 2015春 ノベザオだけじゃ、もの足りない。飛び道具の出番・簡素の美学テンカラの底流 』つり人社 ◆下記、『山と釣り 2015 vol.1 いざ、世界で一番美しい源流へ。 特別企画テンカラ釣り入門 』地球丸 の掲載記事からの抜粋です。 ◆下記、湯川豊「山と渓流の図書館」からの引用です。 ◇ 今西錦司『イワナとヤマメ―渓魚の生態と釣り』 平凡社ライブラリー 「魚釣り」 ◇ 辻まこと『多摩川探検隊』小学館ライブラリー 「春の渓流」 ◇ 西丸震哉『山歩き山暮らし』中公文庫 「大草原のある山頂」 ◇ 山本素石『安楽椅子の釣り師』みすず書房 「ねずてん物語」 ◇ 森下雨村『猿猴川に死す』平凡社ライブラリー 「八畳の滝」 ◇ 井伏鱒二『井伏鱒二文集3 釣りの楽しみ』ちくま文庫 「コタツ花」 ◇ 井伏鱒二『川釣り』 ◇ 星野道夫『イニュニック[生命]』新潮文庫 「ハント・リバーを上って」 ◆下記、『山と釣り 2015 vol.1 いざ、世界で一番美しい源流へ。 特別企画テンカラ釣り入門』地球丸 の掲載記事からの抜粋です。 ◆下記、「川心をそそる本 15選 / 編集部の本棚からひとつかみ。」 からの引用です。 ◇ 白石勝彦『源流の釣り 大イワナの世界』山と渓谷社 ◇ 湯川豊ほか『岩魚幻談』朔風社 ◇ 戸門秀雄『職漁師伝 渓流に生きた最後の名人たち』農山漁村文化協会 ◇ 佐藤成史『瀬戸際の渓魚たち』つり人社 ◇ 高桑信一『タープの張り方 火の熾し方』山と渓谷社 ◇ 開高健『フィッシュ・オン』新潮社 ◇ 矢口高雄「釣りキチ三平 第3集 イワナ釣り編』講談社 ◇ シェリダン・アンダーソン 田渕義雄『メイベル男爵のバックパキング教書』晶文社 ◇ 鈴野藤夫『魚名文化圏 イワナ編』東京書...

TWEET「身過ぎ世過ぎで 日が暮れて」

◇ 手塚治虫,手塚プロダクション『手塚治虫の山』ヤマケイ文庫 を、読み始めました。 「ヤマケイ文庫(2010年刊)」, 「ヤマケイ新書(2014年刊)」の創刊を知ったのは、2019/07/14 のことでした。「モンベル 豊橋店」さんの書籍コーナーで目にしました。ときに「山と広告」と揶揄される月刊誌「山と溪谷」とは一線を画し硬派です。その充実ぶりに、先鞭をつけられた編集長の萩原浩司氏に敬意を表しております。  脈絡なき読書です。 詳細は近日中に、ということにさせていただきます。 2020/06/24 に、 ◇ 手塚治虫,手塚プロダクション『手塚治虫の山』ヤマケイ文庫 のはじめの二編を読み、そのままになっていた。そして、昨日全十編を読み終えた。その間に父の入院、またテスト週間があったとはいえ、一週間のブランクは大きい。 小林秀雄最後の対談「歴史について」考える人 2013年 05月号 新潮社 「繰り返して言おう。本当に、死が到来すれば、万事は休する。従って、われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。」ー『本居宣長』(32頁)より。 小林秀雄の強い言葉である。 身過ぎ世過ぎで 日が暮れて / 山のお寺の 鐘がなる 「予感だけ」が充満している。 ◆「ブラック・ジャック - 昭和新山 - 」 ◆「火の山」 の二作品では、昭和新山が取り上げられている。三松正夫 夫妻を知ったのは大きな収穫だった。 以下、 「三松正夫記念館」 です。

三遊亭金馬「釣りには師匠をとれ」

三遊亭金馬『江戸前の釣り』中公文庫  釣りには師匠をとれ、という諺がある。自分一人で何年釣っていても、参考にはなるが釣技は向上しない。よい例が、ハゼ釣りの乗合舟に乗って、うまい人の隣にすわり、仕かけ、釣り方を見ていると、感心させられてよい参考になる。(190頁)  何人かが並んで竿を出している際に、そのうちの一人の釣果が、他を圧倒していることがあります。そんなときには、私は躊躇なく、その人のところにお伺いをたてに行きます。釣れるには釣れる理由があります。たいていの場合には、どんな質問にも答えてくれます。そんなときの釣り人の口は軽く、饒舌です。ときには一人私ばかりが、魚とのやりとりに忙しいことがあります。魚を取りこむ際には、魚は暴れ水面をたたきますので、周囲の目がいっせいにこちらに集まります。気恥ずかしく、遠慮がちに、魚を手元に寄せます。「聞きにくれば、答えますよ」とは思うものの、それ以上のことはできるはずもなく、しかし、その場に子どもが居合わせているときには話は別で、教えに出かけることもあります。  地元を流れる豊川河口での夏ハゼ釣りやウナギ釣り、手長エビすき・手長エビ釣りでは、近所のお年寄りの方たちから、釣りの手ほどきにはじまって、餌取り、時季、時合い、潮時、ポイント、料理法、はては、釣りや釣具の、また川の変遷にいたるまで、ずいぶんとたくさんのことを教えていただきました。この地に特有なものもあれば、その人の創意工夫であることもありました。シジミ取りにしても熟練のその手業はみごとです。  毎年 季節が到来すると、それぞれが自慢の道具仕立てで川岸にやってきて、思い思いの釣りを楽しんでいました。勝手知ったる人たちばかりでしたので、ワイワイガヤガヤと、にぎやかな釣りでした。そこに子どもの姿がないのをいつも残念に思っていました。しかし、寄る年波は容赦なく、いまでは私だけが、ただ一人とり残される格好になってしまいました。この地に生まれ、この地を流れる川で何十年となく釣りを楽しまれた、先輩釣り師の方たちの創意や工夫を、遺された言葉を、川への思いを、私は誰に語り継いでいけばいいのか。季節季節にその時期に見合った釣りを一人楽しんでいれば、いつか適当な誰かが現れないとも限りません。今シーズン川には、キャスティングの練習に行っただけでした。地元を流れる川には、地元の川でしか味わえない釣...

「山賊の岩魚釣り」

伊藤正一『定本 黒部の山賊 ー アルプスの怪』山と渓谷社  林平の岩魚釣りはまさに名人芸だった。彼はどこの岩魚は、それぞれの時期にはどんな虫を食べているかをよく知っていたので、その虫の色に合わせて、毛針を自分で巻いた。  彼は流れのはたを、上流に向かって静かに歩きながら針を投げた。針を投げつつ歩く速さは常人がふつうに歩く程度だった。彼の手もとが軽くかすかに動くと、針は生きたもののように彼の思うところに落ちた。すると、まるで磁石にでも吸いつけられるように魚が吸いつけられてきた。つぎの瞬間、岩魚は空中をひらひらと舞うように飛んで、左手の手網の中へ飛び込んだ。そしてそのときには針がはずれているのである。万一途中で針がはずれても、岩魚だけは手網の中へ飛び込んでくる。まさに見惚れるほどの名人芸である。「拾うよりも早い」と彼は言っていた。  六月ごろまで黒部の谷にも雪渓がだいぶ残っている。雪渓の下にいる岩魚を釣るときは、彼は針を水平に振った。魚は水平に飛んで手網の中に入った。あまりのみごとさに私はしばしば見惚れていた。後日政府のある高官が「無形文化財にしようか」と言ったほどである。  調子のいいときは半日で十貫ほど釣ったこともある。そんな日にはそれ以上は釣らなかった。残りの半日で釣った岩魚を燻製にするためである。  通常、岩魚はだれかの釣ったあとしばらくのあいだは絶対釣に釣れないものだが、不思議に林平の釣ったあとは、直後でも釣れた。彼はぜんぜん魚をおどかしていなかったからである。  林平は漁をするだけでなく、山と魚を愛していた。釣りの往復にはかならず鎌を持って行って道端の草を刈りながら歩いた。また絶対に小さな魚は釣らなかった。まちがって小さなのを釣ったときは「来年まで、でかくなっていろよ」と言って逃してやった。 (中略)  その彼はもしだれかが毒などを流して岩魚を獲ろうものなら、怒り心頭に発して徹底的にこらしめた。「毒を流すと、幼魚や、岩魚の餌になる川虫までが死んでしまうから、当分岩魚が絶えてしまう」と言うのである。  したがって彼らのいたころは、悪い猟師が入らず、黒部は荒らされなかった。その点は、むしろ山賊のよい半面であった。(58-59頁)     遠山林平は、四人の「黒部の山賊」の一人である。 山賊とは良識ある山人、哲人のことだった。 「半日で十貫ほど」とは「半日で...

TWEET「一竿の夢」

昨日、 ◇ 山本素石『山釣り』ヤマケイ文庫 ◇ 山本素石『新編 溪流物語』ヤマケイ文庫 が届いた。これを逍遥といおうか、埒外といおうか。 ◇ 山本素石『山釣り』ヤマケイ文庫 I 山中漂白 「飢餓のすなどり」 「山野秋邨先生」 「ボヘミアン」 「野宿の弁」 「天狗の神楽」 「ねずてん物語序説 」 Ⅲ 山中異聞 「山小屋の夜語り」 「奥美濃夜話」 「イワナの楽園」 「佐渡の渓流(上)」 「佐渡の溪流(下)」 〈解説〉 熊谷栄三郎「野人の風貌」 を読み頓挫した。 そして、来シーズンの実釣に向け飛び火した。 ◇ 片山悦二『テンカラ釣りがある日突然上手くなる (釣力UP!壁を破る超常識シリーズ)』つり人社 ◇ 石垣尚男『超明快 レベルラインテンカラ』つり人社 ◆『山と釣り  2015 vol.1  いざ、世界で一番美しい源流へ。 特別企画テンカラ釣り入門   』地球丸 ◆『渓流  2015 春 ノベザオだけじゃ、もの足りない。飛び道具の出番・簡素の美学テンカラの底流   』つり人社 一竿に夢を託している。 が、 ◇ 山本素石『山釣り』ヤマケイ文庫 に見切りをつけたという意味では決してない。投げ出すにはもったいない本である。結構な釣行記であり、釣り文学である。気まぐれな、気ままな読書に終始しているだけのことである。

TWEET「一竿の風月」

山から溪へと目先がかわった。とはいえ、いまだ「山と溪谷」のうちにある。 「源流の漂泊者 瀬畑雄三の源流哲学」 高桑信一『源流テンカラ』山と溪谷社 「沢登りが溪谷を遡って山頂をめざす遊びだとすれば、釣りびとは竿を操って岩魚を求め、魚止を目標とする源流の逍遥である」(225頁) 昨日、 ◇ 山本素石『山釣り』ヤマケイ文庫 ◇ 山本素石『新編 溪流物語』ヤマケイ文庫 が届いた。これを逍遥といおうか、埒外といおうか。

田部重治「静観的登山」

「山と溪谷 田辺重治選集」 萩原浩司『写真で読む 山の名著 ヤマケイ文庫50選』ヤマケイ文庫 「山は如何に私に影響しつつあるか」は、一九一九(大正八)年、田部重治が慶應義塾山岳会の第五回大会に招かれたときの講演をまとめたものである。慶應義塾の会報『登高行』に講演の内容が掲載されたのち、第一書房版『山と溪谷』に収録するにあたって文章体にあらためられた。講演のなかで、田辺は自分の山に対する感情が、三つの段階に変化してきたことを述べている。  第一は山をあこがれながら山に恐怖を感じた時、第二は山が自己であり自己が山であると感じて、その自己というものの考え方がごく狭い小さな自己を意味していた時、第三には自己は狭い自己を超越した自己であるということを考えるようになった時である。」(78頁)  そして、次頁には、「静観的登山」の言葉がある。  田部重治のいう「自己」は、いずれの地平へと広がり、いずこへ収束するかは、選集である『写真で読む 山の名著 ヤマケイ文庫50選』では推しはかるべくもなく、 ◇ 田部重治『山と溪谷 田辺重治選集」ヤマケイ文庫 に直接当たろうと、注文してはみたものの、年半ばにしての講演であり、はなはだ心もとなく感じている。

TWEET『山岳装備大全』

 2020/09/16「モンベル 豊橋店」さんの女性スタッフの方に、 「以下の本を書棚に並べるか平積みにしてください、と店長さんにお伝えしてください」 と伝言した。 ◇ 『萩原編集長の山塾 写真で読む山の名著 ヤマケイブンコ50選』ヤマケイ文庫 「NHKのテレビ番組「実践! にっぽん百名山」の解説者を5年にわたってつとめた萩原編集長が、ヤマケイ文庫に収録された山の本の中から印象に残る一節と、文章に関連した写真とともに紹介する。  その文章が書かれた背景などを詳細に解説し、なにげなく読み飛ばされてしまっていた文章の背景に潜むドラマや、著者の心情をより深く理解するための周辺情報など、編集長ならではの視点で解説した「山の名著」の紹介本。  著者みずからが撮影した松濤明の手帳(『風雪のビヴァーク』の原典)の写真など、山の名著を目で見て楽しめる!」  すると、 「私が店長に勧められた本です」 と言って、以下の本を示された。 ◇  文 ホーボージュン×村石太郎,写真 永易量行『山岳装備大全』山と溪谷社 「最高の執筆陣とクールな写真で、山岳装備の主要33アイテム、小物18アイテムの詳細を解説。 商品選びのポイントがわかるようになる基本知識のほか、他の本には書かれていない歴史やマニアックなエピソードまで語られており、山岳装備のみならずアウトドアユーザー全般にも役立つ、かつてない決定版用具本。」  スタッフの女性は店長さんをストイックと称した。まったくその通りの人柄で、ストイックな店長さんご推薦の書籍と あらば買うに如くはなく、購入した。少しのためらいもなかった。  2020/08/26,27,28 に定期テストを終えると、たて続けに組長(丁内)の務めがあった。2020/09/03 に叔父が急逝し、2020/09/09 には父が退院し、老健に入所した。疲弊している。寝るか、横になって音楽を聞いてばかりいる。深刻な活字離れのなか、唯一『山岳装備大全』がそれをつなぎとめている。「山より道具」,「 山より山岳書」を謳う私にとってはうってつけの本である。なによりも、永易量行さんの写真が美しく、見栄えがする。読書の秋へのステップとしては申し分のない書籍である。  ときに痛々しくも映るが、ストイックな人は真摯で信頼に足る。店長さんにはいつまでもシーラカンスであってほしいと願っている。  ...

TWEET「事に始めがあるならば」

今日発売の雑誌、 ◇『山と溪谷 2019 No.1014 10』山と溪谷社 を買った。 「第2特集 書店員がおすすめする『山の本』」 の特集記事が目当てだった。そして、すすめられるままに、 ◇ 空木哲生 『山を渡る -  三多摩大岳部録 - 1』KADOKAWA を求めた。禁断のコミックスに手を出した。 先月は、 「特集 紙地図と電子地図」 に魅かれ、また来月号の特集記事、 「大特集 富士山」 に意欲満々である。「富士山」,「大特集」とあれば 、読まなければ沽券に関わると大仰なことを考えている。  思えば、 2019/07/14 に、「モンベル 豊橋店」さんの書籍コーナーで、「ヤマケイ文庫」を知ったのがはじまりだった。異色の読書体験をしている。事に始めがあるならば、事なきを得ることも、事切れることもあるだろう、と達観している。

「山の日に山気にあたる_3/3」

高桑信一『古道巡礼 山人が越えた径』ヤマケイ文庫 「仕事の径(みち)は暮らしの延長線上にあった。径は、その仕事の目的によって、たどる径筋がまるで異なっていたのである。たとえばマイタケ採りの径なら、マイタケの出るミズナラの木を効率よくめぐるように付けられているし、それがゼンマイ採りの径なら、ゼンマイの生えている渓の奥まで、険しい溪筋を避けながら、山肌の弱点を縫ってつづいていた。それらの径には無駄というものがなかった。(中略)そのような無駄を排した径が、原生の自然と見事に融和しながら、一条の美しいラインとして山中につづいていたのである」(8頁) 「径は目的によって拓かれ、目的を失うことによって消え果てた」(392頁) 「滅びゆくものに、かぎりない愛着をおぼえて止まないのは、無常への追認である」(394頁) 「そんなはかない、常ならぬものへの諦観と覚悟をいざなう滅びゆく存在が、私を捉えて離さなかったのだ」(394頁) 高桑信一の ◇ 高桑信一『古道巡礼 山人が越えた径』ヤマケイ文庫 は、 ◇ 高桑信一『山の仕事、山の暮らし』ヤマケイ文庫 と同様に、入念なフィールドワークに基づいた、一級の山の民俗誌の風格がある。  山人が “用” のためにつけた径を俯瞰したとき、幾筋かの径筋が細線として映える。用の美である。  確かに、高桑さんの文章は上手いが、ときに洒脱にすぎるのが難点である。

「山の日に山気にあたる_2/3」

「山で死んでも許される登山家」 山野井泰史『垂直の記憶 岩と雪の7章』ヤマケイ文庫 「僕は計画の段階では死を恐れない。しかし、山に行くと極端に死を恐れはじめる。  なぜ、誰にも必ず訪れる死を恐れるのだろう。  この世に未練があるから恐いのか、死ぬ前にあるだろう痛みが恐いのか、存在そのものがなくなる恐怖なのか ー 。しかし、クライミングでは死への恐怖も重要な要素であるように思える。 「不死身だったら登らない。どうがんばっても自然には勝てないから登るのだ」  僕は、日常で死を感じないならば生きる意味は半減するし、登るという行為への魅力も半減するだろうと思う。  いつの日か、僕は山で死ぬかもしれない。死ぬ直前、僕は決して悔やむことはないだろう。一般的には「山は逃げない」と言われるが、チャンスは何度も訪れないし、やはり逃げていくものだと思う。だからこそ、年をとったらできない、今しかできないことを、激しく、そして全力で挑戦してきたつもりだ。  かりに僕が山で、どんな悲惨な死に方をしても、決して悲しんでほしくないし、また非難してもらいたくもない。登山家は、山で死んではいけないような風潮があるが、山で死んでもよい人間もいる。そのうちの一人が、多分、僕だと思う。これは、僕に許された最高の贅沢かもしれない。 (中略)  ある日、突然、山での死が訪れるかもしれない。それについて、僕は覚悟ができている」(178-179頁) 「山で死んでもよい人間もいる。そのうちの一人が、多分、僕だと思う。これは、僕に許された最高の贅沢かもしれない」。  山野井泰史のいう死とは、不慮の死をいうのだろう。自然の脅威に人は翻弄される。非業の死を遂げたといえば、周囲も山野井自身も納得するだろう。この天才クライマーにとって、それ以外の死は考えられなかった。これは天性と周到な準備に因るものである。  死の話題が二つ続いた。 山の本を読むとは特異な体験をすることである。逸脱から免れるために、次は「山人」の話である。  宮沢賢治『なめとこ山の熊』には、鷹揚な死、殊更でない死が描かれている、といえば、また逸脱か。「青空文庫」で、どうぞ。

「山の日に山気にあたる_1/3」

 富嶽遥拝の旅を続けている。  静岡県掛川市の「小夜の中山峠」、富士宮市の「富士山本宮浅間大社」,「山宮浅間大社」、また「本栖湖」から遥かに仰いだ富士の高嶺は美しく尊かった。「人穴富士講遺跡」,「村山浅間神社」,「白糸の滝」、 また「道の駅 朝霧高原」,「静岡県富士山世界遺産センター」も忘れられない。  目を移せば、「伊吹山」、那智山中にかかる「那智の滝」、いずれも御神体である。  いま信仰の対象としての山に興味がある。  霊峰を前に、茫然として立ちつくす。私の不用意な動きが、すべてを崩壊へと導く。私は平安のうちにあるが、心奥のどこかが緊張しているような気がする。それを畏れというのかもしれない。  ブログ内を「ヤマケイ文庫」で検索すると、17の文章が表示された。 遠藤甲太「松濤明の遺書」 松濤明『新編・風雪のビヴァーク』ヤマケイ文庫 「一九四九年一月四日から六日にかけての「手記」。われわれはこの種の文章を、ひとつの文学作品として読むほかないのだけれど、私の知るかぎり松濤の遺書は、自衛隊員・マラソンランナー円谷幸吉の遺書と並んで、最も衝撃的な文学上の奇蹟である。円谷書が自死する哀しみの至純さにおいて言語を絶しているとすれば、松濤書はその対極。あくまで死と闘い、ついに倒れんとする瞬間の圧倒的な臨場感(リアリティ)において、やはり言語を絶している」(337-338頁) 「壮絶な手記を残して風雪の北鎌尾根に消えた松濤明」 萩原浩司『写真で読む 山の名著 ヤマケイ文庫50選』ヤマケイ文庫 『風雪のビバーク』は、戦前・戦後にかけて数々の初登攀記録を打ち立て、風雪の北鎌尾根に逝った希代のアルピニスト、松濤明の遺稿集である。松濤は一九四九(昭和二四)年一月に、奇しくも加藤文太郎と同じ風雪の槍ヶ岳北鎌尾根で遭難するが、遺体のかたわらで発見された手帳の壮絶な手記が耳目を集めた。そこには遭難に至った経緯が細かに記され、最後には岳友と共に死を受け入れてゆく過程と心情が描かれていた。(34頁) 「風雪のビヴァーク」 松濤明『新編・風雪のビヴァーク』ヤマケイ文庫 1月6日 フーセツ 全身硬ッテカナシ、何トカ湯俣迄ト思フモ有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス  オカアサン  アナタノヤサシサニ タダカンシャ. 一アシ先ニオトウサンノ所ヘ行キマス。  何ノコーヨウモ出来ズ死ヌツミヲオユルシ下サイ.  ...

「山の日を前に、山気にあたる」

    偉容を仰ぎ、凄惨な 死に 慄(おのの)き、「 山の日」を前に山気にあたり、慄然としている。     読み急ぎ過ぎている。受容できないままに平衡を失いかけている。 山の本を読むという特異な体験をしている。逸脱から免れる ために小休止することにした。 2018/07/14 に「ヤマケイ文庫」「ヤマケイ新書」の存在を知った。 ◇ 高桑信一『山の仕事、山の暮らし』ヤマケイ文庫 ◇ 高桑信一『タープの張り方 火の熾し方 私の道具と野外生活術』ヤマケイ文庫 ◇ 塀内夏子『おれたちの頂 復刻版』ヤマケイ文庫 ◇ 伊藤正一『定本 黒部の山賊 ー アルプスの怪』山と渓谷社 を読み、 ◇ 高桑信一『古道巡礼 山人が越えた径』ヤマケイ文庫 「八十里越」 「八十里越の裏街道」 「熊野古道 小辺路」 ◇ 高桑信一『源流テンカラ』山と渓谷社 「源流の漂泊者 瀬畑雄三の源流哲学」 ◇ 大森久雄 編『山の名作読み歩き 読んで味わう山の楽しみ』ヤマケイ新書 「山頂」深田久弥 「山」小林秀雄 ◇ 萩原浩司『写真で読む 山の名著 ヤマケイ文庫50選』 ヤマケイ文庫 「新編 単独行」加藤文太郎 「 新編・風雪のビヴァーク」松濤明 「垂直の記憶」山野井泰史 「ナンガ・パルバート単独行」ラインホルト・メスナー をひろい読みした。そして、 ◇ 長野県警察山岳遭難救助隊『長野県警レスキュー最前線』ヤマケイ文庫 ◇ 山野井泰史『垂直の記憶』ヤマケイ文庫 が手元にあり、 ◇ 松濤明『 新編・風雪のビヴァーク 』 ヤマケイ文庫 を注文した。 そしていま、 「神々の山嶺(いただき)」に魅入られている。 以下、 「大暑の日に_山気にひたる」 です。

「大暑の日に_山気にひたる」

  2019/07/11 に 「trangia(トランギア)」 の 「メスティン」 を知り、 「アルコールバーナー」 を知った。以来 十日あまり、山気の中にある。  一昨日、 ◇ 高桑信一『山の仕事、山の暮らし』ヤマケイ文庫 を通読した。令和になりはじめての一冊だった。 ときに洒脱に過ぎる情景描写に辟易したが、入念なフィールドワークに基づいた一級の民俗誌の趣がある。 いま、 ◇ 高桑信一『古道巡礼 山人が越えた径』ヤマケイ文庫 ◇ 高桑信一『タープの張り方 火の熾し方 私の道具と野外生活術』ヤマケイ文庫 ◇ 高桑信一『源流テンカラ』山と渓谷社 ◇ 大森久雄 編『山の名作読み歩き 読んで味わう山の楽しみ』ヤマケイ新書 の五冊が手元にある。我知らず、気がつけば 「 高桑信一」づいている。  「ヤマケイ文庫(2010年刊)」.「 ヤマケイ新書(2014年刊)」の創刊を知ったのは、2019/07/14 のことだった。「モンベル 豊橋店」さんの書籍コーナーで目にした。ときに「山と広告」と揶揄される月刊誌、「山と溪谷」とは一線を画し硬派である。その前日には、 「trangia」 の 「アルコールバーナー」 を、前々日には、 「フューエルボトル オリーブ 0.5L」 と「バイオエタノール」を求め、火遊びに興じた。  登山用具と戯れている。「エマージェンシーセット」作りとあだ名して遊んでいる。非常食・非常飲料の類は全く持たないが、片手落ちはお手の物であり、一向に平気である。     昨日から夏休みがはじまった。夏期講習までの束の間の夏に、果てることを厭わず、と遊び惚けている。

「自分の声といい肉声といい」

「山の日に山気にあたる」 2022//08/11 「霊峰(富士)を前に、茫然自失として立ちつくす。私の不用意な動きが、すべてを崩壊へと導く。私は平安のうちにあるが、心奥のどこかが緊張しているような気がする。それを畏れというのかもしれない」  私の美の体験である。 「摩訶般若波羅蜜多心経」を諳んじた。間をおかずに何回か唱えると、美の体験と近似した心境になることを、数日前に気づいた。それは、「南無阿弥陀仏」の「六字名号」を唱えた後にも起こることを、はっきり自覚している。 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書 「それでは最後に、以上の意味を忘れて『般若心経』を音読してください」(194頁) 「自分の声の響きになりきれば、自然に『私』は消えてくれるはずです」(198頁) 「声の響きと一体になっているのは、『私』というより『からだ』、いや、『いのち』、と云ってもいいでしょう。むろんそれは宇宙という全体と繋がっています」(199頁) 墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社  「念仏にしても、木魚一つでもあれば、称名の声と木魚を撃つ音と主客一如になるところ、大自然のいのちを呼吸する心境は深まりうるわけで」ある。(12頁) 「自分の声の響き」であり、「称名の声と木魚を撃つ音」である。  また、小林秀雄は、 「あの人(本居宣長)の言語学は言霊学なんですね。言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る。肉声だけで足りた時期というものが何万年あったか、その間に言語文化というものは完成されていた。それをみんなが忘れていることに、あの人は初めて気づいた。これに、はっきり気付いてみれば、何千年の文字の文化など、人々が思い上っているほど大したものではない。そういうわけなんです」(『本居宣長 (下)』新潮文庫 388頁) といっている。 「言霊は、先ず何をおいても肉声に宿る」  畏怖すべきは声にあった。  いま何かが動きはじめた。言葉を弄すること、徒らに動くことの愚かさを思っている。