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「司馬遼太郎が是とした『すがすがしさ』」

関川夏央 解説・解題「言葉の共同作業を尊ぶ心」 司馬遼太郎『日本語の本質―司馬遼太郎対話選集 2』文春文庫 日本では、デベイトの強者をいかがわしやつ、サギ、インチキ師、ヘラズ口というんだ、というたぐい。どうして互いに自分の弱点を持ちよって、机の上で弱点会議をやらないのか。(237-238頁)  司馬遼太郎の「軟体動物みたいな、ビールの泡のような日本語がはこびる」という言葉は、いわゆる「日本語の乱れ」を嘆ずる言葉ではなかった。人を言いくるめる技倆の向上、あるいは口喧嘩に勝つための屁理屈の達者さをよしとするがごとき風潮への憂いであった。  バブル経済の頂点へと向かいつつあったこの一九八0年代末葉、「ディベート」という言葉はテレビマスコミを中心に流行していたが、それはおそらく「国際化」への焦燥の末節的表現であった。司馬遼太郎は、そのような空論の空転をもっとも嫌ったのであるが、それは、彼がもっとも重きを置いた価値、人間の「すがすがしさ」の対極にあるものと認識されたからである。( 238頁) 「すがすがしさ」とは漢字で表記すれば「清々しさ」であって、換言すれば、司馬遼太郎は「美しさ」をもって是としたのだと私は理解しています。「すがすがしくあること」、また「美しくあること」は、行住座臥、あらゆる場面にわたっての試金石です。 明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようは)」を思いだします。

TWEET「故あってのことです」

 故あって、2019/06/13 より、閲覧者を制限するために、「revival」を連ねています。小林秀雄についてのブログの再掲は効果覿面でした。日々埋もれていくブログの再掲は有意味でした。いましばらく、 「revival」を続けます。  2019/08/04 で、ブログを書きはじめて四年になりました。四歳児の作文です。  次回は、井筒俊彦です。効果覿面間違いなしの双璧です。

河合隼雄「何もしないことに全力を傾注する」

「何もしないことが、力を生む」 「何もしないことに全力を傾注する」 「人生といかに折り合いをつけるか」 河合隼雄,谷川浩司『「あるがまま」を受け入れる技術 』PHP文庫 (157-158,160-161,164-165頁)    これは何度も本に書いていることですが、私のカウンセリングの考え方の基本は「無為」ということです。「何もしない」ということですね。それも「何もしないことに全力を傾注する」。  クリシュナムルチの「ものごとは努力によって解決しない」という言葉が好きです。  老子の言葉で、「無為をなせば、すなわち治まらざるはなし」というのがあります。これは政治の話でして、為政者が一部の人を優遇したりするから争い事が起きる、よけいな作為をしないでおけば治まらない国はない、ということを言ってるんですね。しかしこれは、心理療法でも同じことです。  そうなるように僕が導くわけじゃないんです。もともとそういう可能性をその人が持っているんですね。その人がもともと持ってるものが自然に出てくるのを待つよりしようがない。だから、カンセリングというのは大変なんです。待ってるだけの商売ですよ(笑)。本当に気の遠くなるぐらい気の長い話ですね。  大切なのは、ただ待ってるだけじゃないということですね。希望をちゃんと持っている。そこが違うんです。だから、長いこと待っていてもイライラしないんですね。下手な人は、待っているうちにイラつくんですよ。そうすると、相手もイラつくわけです。その点、僕なんかはもう堂々と待っていますから(笑)。  「何もしないことに全力を傾注する」。それはものすごいエネルギーのいる仕事ですよ。よほどエネルギーがなかったらできないです。そのエネルギーをうまくコントロールできないから、爆発してイライラするんですね。

河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫_02

河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫 今日は、河合隼雄先生の「 伝説の京都大学退官記念講義」 を拝読させていただきました。 講義名は、 「コンステレーション ー 京都大学最終講義」 でした。 下記、サブタイトルです。サブタイトルだけ見ますと、難しそうに思えますが、平易なことばで語られています。が、内容の理解の程度には、個人差があり一様ではないことは当然のことです。 「言語連想テストからの出発」 「原型がコンステレートしている」 「自己実現の過程をコンステレートする」 「一つの事例」 「母なるものの元型」 「意味を見出すということ」 「全体がお互いに関係をもつ」 「コンステレーションを私が読む」 「余計なことをしない、が心はかかわる」 「気配を読み取る」 「コンステレーションと物語」 「日本の神話をいかに語るか」 講義中には、「コンステレーション(布置)」とか「アーキタイプ(元型)」とか「シンクロニシティ(共時性)」という言葉が頻繁に出てきます。学生時代に読んだ河合隼雄先生の『ユング心理学入門』培風館 を思い出しました。河合隼雄先生の京都大学での講義録です。河合隼雄先生が京都大学で講義をされている姿を久しぶりに思い描きました。乱雑で乱脈な行きあたりばったりの講義が多い中で、河合隼雄先生の体系だった講義に、当時驚きの声を上げたことを懐かしく思い出しました。 河合隼雄『ユング心理学入門』培風館  ことあるごとに「最終講義」を読み返そうと思っています。貴重な講義録です。 なかで、 長新太さんが書かれた絵本『ブタヤマさんたら ブタヤマさん』に触れられています。頁をあらためて書こうと思っています。 河合隼雄「気配を読み取る」_長新太『ブタヤマさんたらブタヤマさん』文研出版

河合隼雄「気配を読み取る」_長新太『ブタヤマさんたらブタヤマさん』文研出版_03

長新太『ブタヤマさんたらブタヤマさん』文研出版 ブログ「長新太『ブタヤマさんたらブタヤマさん』文研出版 」 河合隼雄『こころの最終講義』新潮文庫 これは、私、すごく衝撃を感じましたのは、ブタヤマさんがチョウをとりに行っているでしょう。チョウというのは、ギリシャ語でプシケでして、これはチョウでもあるし、心でもあるんです。そういうふうに見ますと、このブタヤマさんというのは心理学者のような気がするんですね。心理学者は心を追いかけて、ばーっとやっているんですけれども、後ろからいろんなのが来ているのに全然見ない。時々、非常に上手に、何にもないときに後ろを見るんですね。「後ろを見ました。完全に見ました。何もありませんでした。そよそよ風が吹いてきました」とか何とか言って、「私は実証的にやっております」と言うんだけれども、一番大事なときに後ろを向いていない。 これは皆さんがよくご存じの鶴見俊輔さんと対談したときに、長さんというのはすごいですなと言うので、この話をしたら、鶴見さんがええことを言われましたね。「ああ、気配がわからなだめですな」と言うんですね。後ろからこう来ているのは、気配というものなんです。だから、われわれ心理学とか臨床心理学をやるものは、気配を読み取らなくっちゃだめなんです。前ばっかり見て、何もないときに後ろを見て、前も後ろも何もありませんというんじゃなくて、気配をさとるというのも、これは僕はコンステレーションを読むということと大いに関係しているんじゃないかなと思います。  そういうことを読み取れる人間として、われわれが成長していく、努力するということが大事ではないかということを、この絵本が非常にうまくあらわしてくれていると思います。

村瀬明道尼『ほんまもんでいきなはれ』

 積読すること十数余年、「ほんまもんで行きなはれ」とばかり読んでいました。  ある年の晩春の琵琶湖釣行時には、あまりもの貧果に喘ぎ、釣りに見切りをつけ、彦根市街を散策中に、店主の人柄のしのばれる小さな書店で、お土産にと思って求めたのがご縁でした。  「ほんまもんで生きなはれ」と読むのが一義だ、と気づいたのは、昨年の暮れのことでした。   早速「第三章 再生」と「終章」を読みました。 帯には、 9つで親元を離れ仏門に入り、 33ではじめて知った道ならぬ恋…。 尼として、おんなとして精一杯、生きてきた。 精進料理の月心寺 「庵主さん」痛快一代記! 「庵主さん」をひと口にいえば、 一休和尚を女にしたような尼さんで、 お酒も飲めば、熱烈な恋もする。    白洲正子著『日本のたくみ』より と書かれています。  今度(来世で)も悪名がついてくるとしたら、なるたけ高いと楽しいなあ、と思います。悪名というものは、立つまでがまた、一苦労なのですから。(284頁)  ふたりきりの病室で、師匠は私の事故後の姿を初めて見て、手を取って泣きました。 「五体満足で、よう生き抜いたな、宗清。わしが死んだら宗弘を頼むで。苦労したな」(276頁) の言葉が身につまされます。