天人 深代惇郎「ハイボール」



天人 深代惇郎「夕焼け雲」惇郎「ハイボール」
深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫(25-26頁)

 この夏、中国で日本の「野球チーム」と中国の「棒球隊」が相まみえることになった。彼は「棒球」といい、われは「野球」というが、こうした大衆スポーツを通じ、いっそう理解し合えるのは喜ばしいことだ。
 中国の棒球規則の前言に「友好第一、試合第二の精神を貫き、チャンピオン主義に反対せよ」と書かれているのは、いかにも中国らしい。覇権を求めず、覇権を許さず、という原則は、野球にまで及んでいるのだろう。
 日本の野球史は百年を超えたが、最初の国際試合は一高対横浜在留アメリカ人だった。無敵を誇る一高チームが、アメリカ側に他流試合を申し込んだが「まあ、やめておきましょう」と相手にしてくれない。
 明治二十九年五月、ようやく念願がかなって、横浜公園で対戦となった。結果は二十九対四で一高の大勝となり、日本野球史の輝かしい一ページとなったが、このとき日本側は捕手以外は素手でやったというからすさまじい。
 日本でも野球の草創期は、チャンピオン主義の風潮はそれはど強くなかった。体育とか娯楽といった純な気分でやっていた。雨のはげしいときはミノかさをつけたし、頭に白はちまき、腰に越中フンドシ、ワラジばきといったいで立ちで、グランドを走り回った。
 ある遊撃手がハカマを着用して出場したとき、礼節を知る選手として相手チームから絶賛されたが、実はゴロを後逸しないためだったという話も残っている。また当時は、ストライクゾーンが三つあった。
 目から胸まではハイボール、腰まではフェアボール、ヒザまではローボール。打者は審判に向かい「余はハイボールを欲す」と予告し、そこに球がこなければ「ボール」になった。相手の弱点をねらわず、欲するものをあたえて勝負するのが正々堂々の試合とされたのだろう。
 こんどの日中野球では、おたがいバッターボックスで「余は友好を欲す」と注文してほしい。このゾーンに外れた球はすべて「ボール」、ということにしよう。(50・4・21)

以下、
です。