井伏鱒二「ひたすらに平らかな言葉が行き交う」

「ひたすらに平らかな言葉が行き交う」
狐『日刊ゲンダイ匿名コラム 水曜日は狐の書評』ちくま文庫
井伏鱒二著『井伏鱒二対談選』(講談社文芸文庫)
 井伏鱒二は一八九八(明治三十一)年生まれ、一九九三(平成五)年没。享年九十五歳。その名を知らぬ人はいない。昭和文学史から決して欠かすことのできぬ作家である。それでいて、教科書にも載る二、三の小説を除いて、ほかにどういう小説があったのか、作品名がふしぎなほど記憶されていない。
 かつて鶴田欣也という近代文学の研究者が、こんなことを書いている。文学に対して「『あっ』というようなもの、異様なもの、突出したものを求めていた」鶴田氏にとって、井伏文学は中和剤になることに気づいたというのである。
 なるほど井伏鱒二の書くものには「あっ」といわせるものがない。粗暴なもの、過剰なもの、熱狂的なもの、多血質なもの、神経症的なものがない。要するに、いま文芸雑誌などを開けば、かしましくあふれかえっているものが何もない。つまりは記憶されにくくて当然なのだ。
 『井伏鱒二対談選』という文庫が出た。オリジナル編集である。相手は安岡章太郎、伊馬春部、三浦哲郎、五木寛之、新井満、今村昌平、開高健、中西悟堂の八人。
 もちろん小説と座談とは違うものだが、これらの対話のうちにも、井伏鱒二の過剰ならざるもの、異様ならざるものを読むことができる。たとえば中西悟堂の自宅で、庭に野鳥の来るのを眺めながら行われた対談など、ひたすらにおとなしい、平らかな言葉が行き交うばかりだ。平凡だというのではない。オナガが飛んで来て水を飲む。そのさまを見て井伏鱒二が語るのはこんなことである。「正宗白鳥さんはパンを食うとき、あんな風に鳥が水飲むようにして食べましたね、仰向いて」
 またセキレイが交尾するのを見た記憶を、井伏鱒二は次のように語る。「二羽いっしょに、くるくる道の上をころがりながら、つむじ風に黄色の色紙が舞っているようで、きれいなものでしたね」
 鋭くとがったところのない言葉は、読み手の記憶に引っかき傷をのこさない。やがて忘れられるだろう。ただ、良いものを読んだという思いは確実に根をおろす。(2000・5・17)(114-115頁)