白洲正子『西行』新潮文庫

白洲正子『西行』新潮文庫
 西行は、大峯修行をし、熊野三山を詣で、空海を遠く仰ぎ、高野山に草庵を結び、生誕の地 讃岐に長逗留した。また、伊勢の「二見の浦」で侘び住まいをし、その後 鎌倉を経て、平泉に向かっている。
 これらは西行の仏道への精進の表れではなく、西行の天性の数寄心の軌跡である。

明恵(上人)の遺訓の中に、このような言葉がある。
「心の数寄(すき)たる人の中に、目出度き仏法者は、昔も今も出来(いでく)るなり。詩頌(しじゅ)を作り、歌・連歌にたづさはることは、あながち仏法にてはなけれども、かやうのことにも心数寄たる人が、軈(やが)て仏法にもすきて、智恵もあり、やさしき心使ひもけだかきなり」(16-17頁)

 「 東(あづま)の方(かた)へ修行(すぎやう)し侍りけるに、富士の山をよめる
 風になびく富士の煙(けぶり)の空に消えて
 ゆくえも知らぬわが思ひかな 」(268頁)

 西行は、「これぞわが第一の自讃歌」と述べている。西行は天来の数寄心によって、救われた。西行 69歳のときの歌である。

白洲正子『西行』は、
  そらになる心は春の霞にて
  世にあらじともおもひ立つかな
の歌からはじまっている。
「うわの空なって落着きのない心は、春の霞さながらである」(岩波古典文学体系)(22頁)

 西行の凄みは、この年になるまで、「そらになる心」,「いかにかすべき我心」から眼を離すことなく保ったことにある。
 また、白洲正子の成果は、西行の「そらになる心」から、「虚空の如くなる心」に至るまでの心の内の変遷を、常に歌に寄り添う格好で明らめたことにある。