「伊勢・瀧原宮神宮と熊野三山_巡拝の旅」

2022/04/07
起き抜けに、
◆ 井上靖『井上靖短篇名作集』講談社文芸文庫
◇「補陀落渡海記(ふだらくとかいき)」
を、Amazon に注文した。
 そして、夜明けを待って出立した。
 8:10 始発の「伊勢湾フェリー」で、伊良湖から鳥羽へ向かった。潮風に吹かれ、船首波の綾なす彩りを見つめていた。

◆「二見興玉神社」
お伊勢参りの順位を踏襲し、はじめに「二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)」を参拝し、お清めの「無垢鹽(塩)草」をいただいた。「夫婦岩」に合掌し、その後、「那智の滝」をめざし、135km の道のりを急いだ。
◆「日瀧神社」
「那智の滝」は御神体である。落差 133m の滝を、飽くことなく眺めていた。


「熊野詣」
白洲正子『十一面観音巡礼』講談社文芸文庫
 翌朝起きてみると、雪が降っており、昨日とうって変った寒さである。私達は、本宮へお参りし、昨夜来た道を下って、那智へ行く。
 こんなお天気にも関らず、飛滝神社の前には、観光バスが四、五台、止っている。神社といっても、ここには社はなく、滝が御神体である。大勢の人にもまれながら、石段を下って行くと、目の前に、滝が現れた。とたんに観光客は視界から消え失せ、私はただ一人、太古の時の流の中にいた。
 雪の那智の滝が、こんな風に見えるとは想像もしなかった。雲とも霞ともつかぬものが、川下の方から登って行き、滝の中に吸いこまれるかと思うと、また湧き起こる。湧き起っては、忽ち消えて行く。それは正しく飛龍の昇天する姿であった。梢にたゆたう雲烟は、空と山とをわかちがたくし、滝は天から真一文字に落ちて来る。熊野は那智に極まると、私は思った。(288-289頁)

◆「青岸渡寺」
「西国三十三所巡礼 第一番 那智 青岸渡寺(せいがんとじ)」は、「熊野那智大社」に向かう途中にある。隣接しているといってもいいほどの距離である。朱の三重の塔が青空に映えていた。
◆「熊野那智大社」
表参道の467段の石段を上った。林間から見え隠れする「那智の滝」の遠景は見ものだった。再訪することを約して、あえて「神札」は
求めなかった。



◆「那智駅交流センター」 
「那智駅」の敷地内に併設されている「那智駅交流センター」で、職員の方に、いろいろ教えていただいた。
 同域内の「丹敷(にしき)の湯(温泉)」につかった。いただいた、「生まぐろマップ ー 紀州勝浦 生まぐろ水揚げ日本一 」と題されたパンフレットを頼りに勝浦へ向かった。
◇「お食事処 桂城」
「鮪定食」をいただいた。さすがに、冷凍まぐろの水っぽさはなかった。脂ののった刺身が美味しかった。季節によって獲れるまぐろが違いますので、料理法も自ずから異なってきます、との言葉が印象的だった。
◆「那智駅」
「那智駅」にひき返し車中泊。
5時、夜明けとともに起床。洗面をすませ、再び「那智の滝」へ向かった。

2022/04/08
◆「日瀧神社」
「那智の滝」を三時間あまり、ひとり占めした。
 滝口(銚子口)から落ちた流れの、任運自在の美を見つめていた。また、「永遠の今」ということを思った。



 滝の示す
方向は地球の中心である。質量あるものは皆 地球の中心を目指す。この一点にすべては収束し、この一点ですべての人との出会いがかなう。

 白川静『初期万葉論』中公文庫
「第一章 比較文学の方法 二 発想と表現」
「前期万葉の時代は、なお古代的な自然観の支配する時期であり、人びとの意識は自然と融即的な関係のうちにあった。自然に対する態度や行為によって、自然との交渉をよび起こし、霊的に機能させることが可能であると考えらえていたのである。(中略)
 自然との交渉の最も直接的な方法は、それを対象として「見る」ことであった。前期万葉の歌に多くみられる「見る」は、まさにそのような意味をもつ行為である」。(中略)
「見る」ことの呪歌的性格は、「見れど飽かぬ」という表現によっていっそう強められる。(15-17頁)
(註)「呪」の語源は「祝」であると白川は書いている。「呪」の字は「いのる」とも読む。「呪能」と同義で「呪鎮」と書くこともある。

 ひとり、「見れど飽かぬ」時間を過ごした。
 団体さんが大挙して来られ撤収した。
◆「補陀落山寺」
「那智駅」から歩いて数分の所に位置していた。

補陀洛山寺 ー 沿革 ー
「世界遺産 補陀落山寺(ふだらくさんじ)」(ポストカード)
 那智の浜から生きたまま船に乗せ、僅かな食糧を積み、外へ出られないように釘付けをして沖に流し、観音の浄土すなわち補陀落山に往生しようとする宗教儀礼が有名な補陀落渡海で、この地から多くの渡海者が船出した。
 「熊野年代記」によるとこの補陀落渡海は貞観十年(八六八)の慶龍上人にはじまり、平安時代に三回、室町時代に十回、江戸時代に六回が記録されているが記録洩れもあると思うので実数はこれより多いこともあろう。
 渡海僧出発の様子は「那智参詣曼荼羅」に画かれているが渡海は十一月、北風の吹く日を選んで夕刻に行なわれた。当日渡海者は補陀洛山寺御本尊前で秘密の修法をし、続いて三所権現を拝した。見送りの観衆のどよめきの中を一ノ鳥居をくぐって浜に出て、白帆をあげ、屋形の周囲に四門及び忌垣をめぐらした渡海船に乗り伴船にひかれて沖の綱切島まで行き、ここで白綱を切って観音浄土をめざし、南海の彼方へ船出して行ったのである。
 一灯をともし、日夜、法華経を誦し、三十日分の油と食糧をたずさえて生きながら極楽浄土に旅立つ信仰であるが、近世になると金光坊が渡海を拒んで島に上がったが無理矢理に入水させられたという伝説もあり、生きながら渡海をするという習慣はなくなり、当時の住職が死亡した場合、かつての補陀落渡海の方法で水葬をするという儀式に変っていった。
 現在当寺の裏山には渡海上人の墓がある。

「渡海船」

 平成五年に復元された、実物大の「渡海船」である。実際に海に浮かべた写真が掲げられていた。
◆ 井上靖『補陀落渡海記」
は、金光坊(こんこうぼう)を主人公とする短編小説である。
 南方にある「補陀落(観音)浄土」をありありと観想できない者にとって、渡海は、自殺行為であり、他殺行為であった。
◆「道の駅 瀞峡(どろきょう)・熊野川」
「かあちゃんの店」で、昼食に「めはりすし定食」をいただいた。「ばあちゃん」の心づくしの定食は美味だった。
◆「熊野本宮大社」


◆「熊野速玉大社」


◆「新宮市立 佐藤春夫記念館」
「熊野速玉大社」の門前脇にある「佐藤春夫記念館」を訪れた。再訪だった。瀟洒な建物だった。
「さんま、さんま、/ さんま苦(にが)いか塩(しょ)つぱいか」
 閉館間際で時間がなかった。
◆「奥伊勢 PA(上り)
「紀勢自動車道」の「奥伊勢 PA」で車中泊。
 夜明けとともに、伊勢神宮を目指した。

2022/04/09
「伊勢神宮 外宮」
◆「伊勢神宮 内宮」
「熊野三山」は野趣にとんでいたが、「伊勢神宮」は洗練され浄らかだった。

「死・再生の思想 ー 鳥が運んだものがたり」
『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』平凡社
梅原猛 鳥の占いと神の占いはどう関係するんですか。
白 川 鳥は、祖霊との繋がりがあるんです。
梅 原 やはり渡り鳥。水鳥。
白 川 うん、鳥が渡って来る所に水があって、村を造って、そしてそこに祖霊を祀る。これ丸い池のある所でやりますんで、「辟雍(へきよう)」という。「雍」の本字は「雝」。水と邑と佳。丸い池だから辟、この辟は「璧」の声符で円いものの意がある。だから大池に囲まれた円形の聖所つまり霊廟のことです。日本でいえば伊勢神宮に相当する。これ、渡り鳥がやって来る所へ神殿を建てて、周りを隔離して、そしてお祀りする。
梅 原 鳥というのは基本的に霊の、これホメロスなんかにもありますね、鳥占い。(139頁)

◆「瀧原宮」
「別宮」である。
 はじめての参拝だった。
「御手洗場(みたらしば)」になっている「頓登川(とんどがわ)」は、小さな流れだったが、清らかだった。コゲラだろうか、ドラミングの音がにぎやかだった。
「瀧原宮(たきはらのみや)」,「瀧原竝宮(たきはらのならびのみや)」,「若宮神社」,「長由介(ながゆけ)神社(川島神社)」の「順にお参り下さい」と書かれた「立て札」が立っていた。いずれもかわいらしいお社だった。

「瀧原宮

瀧原竝宮」

司馬遼太郎『この国のかたち 五「神道」』文春文庫
「神 道 (三)」
 古神道というのは、真水(まみず)のようにすっきりとして平明である。
 教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在(おわ)す。
 例として、滝原の宮(瀧原宮)がいちばんいい。
 滝原は、あまり人に知られていない。伊勢(三重県)にある。伊勢神宮の西南西、直線にして三十キロほどの山中にあって、老杉の森にかこまれ、伊勢神宮をそっくり小型にしたような境域に鎮まっている。
 場所はさほど広くない。
 森の中の空閑地一面に、てのひらほどの白い河原石が敷きつめられている。一隅にしゃがむと、無数の白い石の上を、風がさざなみだって吹いてゆき、簡素この上ない。(28-29頁)

 14:10 発の「伊勢湾フェリー」で 、帰途についた。
 やり過ごした島々が、いつしか重なり合って、山並みを成していた。航行にともなって、新たな山並みが現れ、遠近(をちこち)に配され、背景となった。船尾に立って、霞む山並みを眺めていた。
「神島」の島影を見ると、旅の終わりを感じた。
◆「恋路ヶ浜」
下船後、「恋路ヶ浜(こいじがはま)」に寄った。

 お土産を伯母と友人に届け、帰宅したのは、19時を過ぎていた。
「熊野は那智に極ま」った。