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ぜひご覧になってください。

白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫_まとめて

◆ 左上の「メニューボタン」をクリックしてください。「サイドバー」が開きます。 ◆ 右上には「検索窓」があります。 ◆ 青色の文字列にはリンクが張ってあります。クリック(タップ)してご覧ください。 ◇  青山二郎「意味も、精神も、すべて形に現れる」 ◇  小林秀雄「梅原さんの言葉は絵なんだ」 ◇  白洲正子「彼らが教えたのは命の限り生きることだった。生を楽しむことであった」 ◇  小林秀雄「それが芸というものだ」 ◇  白洲正子「『かさね色目』_王朝文化は日本の美の源泉」 ◇  白洲正子「遊鬼 鹿島清兵衛」

TWEET「年寄りあつかい」

  ここ数年 何かと “年寄りあつかい” されるようになった。易しい言葉づかい、優しい応接が多くなった。余所目にはもう “ 年寄り ” に映るようで、たび重なれば食傷気味にもなる。  が、 いまでは、“易しさ”、 “ 優しさ” に触れ 、心地よさを感じるようになったから、本物である。  馬齢を重ね、老醜をさらすのも先々のことではなく、 遅かれ早かれ そっぽを向かれるときがくることは覚悟している。

TWEET「相談者として」

 上手に聴いていただくと、体が明るく、伸びやかになる。  精神科受診時の話である。 「聴く」ということについては、いままで随分と読み、また書いてきたが、相談者としての立ち位置については、考えたことがなかった。  15分前後と短い面接時間で、要領を得た話をするには、事前の準備が必要である。漫然とした話に終始すれば、せっかくの面接が診察・問診に転落してしまう。  要領を得た話とは、こころの深奥に秘めた内容を話題にすることである。 “死と再生の物語” であるから、恐怖をともなう。が、医師と二人で紡ぐ物語である、という安心感がある。  昨日の受診は、私が午前中最後の患者だった。N 先生はいつになく静かで、落ち着いていた。いい時間を過ごすことができ、ありがたかった。

TWEET「草むしり」

 検索すると、「除草」と「草取り」は同義語で、「草むしり」は草を根から抜き取ること、「草刈り」は道具を使って雑草を刈ること、と意外なことが分かった。  私は「草むしり」をしようとしているが、なかなか根こそぎに、とはいかない。  除草剤はまきたくない。地中の微生物が絶え、土が死んでしまう、とはいえ、今春 土の上にシートを敷きつめ、その上に玉砂利を敷くという蛮行に及んだ。が、シートの下のことは多少 気になっている 。  シートの上に生えた草は、気持ちよく根こそぎ抜ける。その網状に張りめぐらされた “ひげ根” を見ると、「草むしり」は到底かなわないと思う。  「草取り」をしながら屋敷内を一巡すると、さらに もう一巡 促される。 「草取り」は、 際限のない作業である。適当で、 いい加減な が「草取り」の秘訣か、と思っている。  

TWEET「ほんの手遊びとはいえ」

 過去3か月間に、 木坂 涼「魚(うお)と空」の閲覧が、5101 回あった。また、過去30日間に、 3049 回の閲覧があった。そして、いまもなお読まれ続けている。 2018/06/26 木坂 涼「魚(うお)と空」 光村図書出版『国語 1』(70-71頁) 急降下。 鳥が 翼(つばさ)で 海を打つ。 鳥は もう摑(つか)んでいる。 波は 海のやぶれ目を ごまかしている 魚は 海を脱(ぬ)けでる 初めて そして たった一度だけ。 空の高見(たかみ)で もうひとつの空へ のまれる  「海のやぶれ目」の意味が解らない子どもたちが結構います。「もうひとつの空」とは、「彼岸」という意味なのでしょうか。  釣り上げた「ちびっこ(ブラック)バス君」を宙づりにすると、「キョトンとした顔つき」をしてぶら下がっていることがあります。はじめてふれた世界に何が起きたのかわからないのでしょう。「ちびっ子バス君」たちにとっては、手荒い洗礼です。水面とは、水中と空中を分かつ一枚のフィルムです。釣りとは、一枚のフィルムをはさんでの攻防です。 2018/09/03 「詩一篇_木坂 涼『魚(うお)と空』の閲覧数について」  2018/06/26 に、手遊びに書いた、 詩一篇_木坂 涼「魚(うお)と空」 の閲覧数が 100を越え、意外に思っています。   光村図書出版『国語 1』からの引用です。中学生諸君の閲覧なのでしょうか。毎日のように 読まれています。 過去 閲覧数の最も 多いブログは、 「小林秀雄が解釈する、本居宣長『敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花』」(2017/04/02) で、 総閲覧総数 32348 と、他を圧倒している。第2位が急伸の、 詩一篇_木坂 涼「魚(うお)と空」( 2018/06/26) で、 総閲覧総数 9944 .。第3位が、 小林秀雄「中原中也の思い出」(2017/08/110) で、 総閲覧数 1859 。第4位が同じく小林秀雄の、 中原中也「ああ、ボーヨー、ボーヨー」(2017/08/11) で、 総閲覧数 1821  となっている。  閲覧数上位のブログを、つらつらと眺めていると、硬派なブログで占められていることが見て取れる。私のブログ中の “古典” である。  しかし、「 詩一篇_木坂 涼『魚(うお)と空』」だけは解せない。ほんの “ 手遊び ”...

TWEET「山野草の盗掘」

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「コチョウラン」 「ツリガネソウ」  昨日 叔父から、鉢植えの「コチョウラン」と地植えの「ツリガネソウ」の画像が届けられた。ゆかしさに心が和む。  希少種の多い「山野草の盗掘」はいただけないが、「花盗人に罪はなし」には一理ある。  叔父の庭に咲く「コチョウラン」と「ツリガネソウ」の出自が気になる。

TWEET「頭ごしに」

 叔母の介護に、従姉妹たちの頭ごしに携わった。もちろん叔父の依頼・了解のもとだったが、終始 息苦しさを感じていた。  “老年精神科” の O先生からお電話をいただいた。 「甥・姪が介護に関わって、上手くいった例はありません。叔父・叔母が自宅に来たとき、ガス抜きに、話を聞いてあげる程度にしてください。あなたがまいってしまいますよ」  介護は家族皆の納得のもとで、協力して行われるのが本来の姿であろう。  いったんは、私の手から家族のもとへ移ったかにみえた介護も、依然 私の内で燻っている。  「頭ごしに」は「頭ごなしに」であり続けている。

TWEET「要は日本語である」

  “介護” にことよせて。  活字を読み理解する習慣さえあれば、例えば私が送った、適当な書物の内容を、容易に共有することができる。もしそうでなければ、簡潔に口頭で伝えるか、メールを書くしかない。いずれにしても言葉たらずである。  要は「日本語」である。  あるいは、「メディアリテラシー」。  「メディアリテラシー」とて、しょせんは「日本語」の範疇のことである。

TWEET「容赦無く、頑なで、執拗な」

 容赦無く、頑なで、執拗な方たちとのおつき合いは、避けたいものである。 が、介護に熱心な従姉妹たちのご依頼・ご相談ごととなれば、話は別である。  一つのご依頼・ご相談ごとが解決すれば、またたく間に 私は置き去りにされる。この落差に、私はしばしの間 抑うつ状態に陥る。そして、次のご依頼・ご相談ごとが舞い込む。  私は口先の人であり、従姉妹は実際に介護をする人たちである。 「 容赦無く、頑なで、執拗な」は、熱意の表れである。  頑張りすぎないこと。  無理をしすぎないこと。  早めに音をあげ、周囲に助けを求めること。  私の従姉妹たちへの願いである。

TWEET「セツブンソウ」

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 叔父が、「YAMAP(アプリ)」に投稿している。  雨天時以外は夫婦連れ添って、主に「 湖西連峰( 静岡県西部 )」をトレッキングしている。  以下、2025/02/ 11 に撮影された「セツブンソウ」である。 「セツブンソウ」  シックな装いの「セツブンソウ」は上品である。叔父夫妻の性格にも似て、会心の一枚である。  そんな叔父が今日、81歳の誕生日を迎えた。

TWEET「令和7年1月2日」

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 午前中、叔父と叔母がお年賀の挨拶に来てくださった。  お年賀に、叔母に、 ◇ 安野光雅『御所の花』朝日新聞出版 を差し上げた。すると、 「牧野富太郎さんの本はありませんか? 」 と聞かれたので、 手元にあった、 ◇『芸術新潮 - 博士の愛したフローラ- 2023年7月号」 を渡した。2023/06/26 DちゃんとKさんの結婚式の一日を、「栂尾山・高山寺」で過ごした帰途、「くまざわ書店 京都ポルタ店(駅ナカ)」で買い、以来 積読してあった品だった。  その後、Amazon から、 ◇『牧野富太郎の植物図鑑』高知県立牧野植物園 ◇『牧野富太郎の植物画集』高知県立牧野植物園 をお送りした。楽しんでいただければ、という祈りにも似た願いからだった。  叔父へのお年玉として用意してあった日本酒、 ◇「久保田 千壽 純米吟醸」 を渡し忘れた。  帰り際、従兄弟の一周忌のお供えに、唐招提寺参観時( 2023/06/06 / 鑑真和上の命日) に購入した「天平香」のセットをあつらえた。  午後には、近所の方から、一枝(いっし)の、 「山茶花」と、ふた枝の「 「チェリーセージ」 の花をいただいた。花瓶といった洒落たものもなく、醤油差しと小鉢に挿した。 春先に移植すれば根付きますよ、とのことだった。  突然 春が舞い込んできた。  生気に満ちている。  断章が続きます。 「山茶花 大和富士 」 「チェリーセージ」

「頌春」

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「バラ(エンブレスミチコ)」 安野光雅『御所の花』 朝日新聞出版 (69頁)

TWEET「聖夜に」

◇ 嘉納純子, 松本智年 他著 / 黒井健 イラスト『あのね、サンタの国ではね…』偕成社 「サンタさんの一年間の物語が描かれています」 ◇ 中川李枝子,山脇百合子『ぐりとぐらのおきゃくさま (ぐりとぐらの絵本)』福音館書店   「思いがけないおきゃくさまから贈り物をもらい友だちと分かちあった、ぐりとぐらのクリスマス・イブのお話」 「子どもが大好きな謎ときがおり込まれた、クリスマスにぴったりの絵本です」  森で雪合戦をしていたぐりとぐらは、雪の上に大きな足跡をみつけました。たどっていくと、自分たちの家の前で消えています。中に入ってマントをかけようとすると、そこには赤いコートが……。暖炉の前には手袋と靴下が干してあって、部屋のすみに大きな袋もあります。「おきゃくさまは、いったい どこだろう」家のなかを探しますが、誰もいません」  すると、どこからかカステラを焼くいいにおいがしてきます。台所へとんでいくと、そこには、白いひげのおじいさんが焼きたてのケーキを持って立っていました。 「仲良しの友だちとみんなで食べる大きなケーキ! クリスマスの楽しいお茶会がもよおされました」  その夜、ぐりとぐらの家には、友だちがおおぜい集まってきて、みんなでクリスマスのケーキを食べ、歌ったり踊ったりしました。  ミステリー仕立てではじまるこの絵本は、何度読んでもドキドキ、ワクワク。思いがけないおきゃくさまから贈り物をもらい友だちと分かちあった、ぐりとぐらのクリスマス・イブのお話です。(出版社より)  上記の2冊の絵本を、明日 書店に立ち読みに行こう、と思っている。長い間 ご無沙汰している書店、久しぶりの立ち読み、となれば、少しの決意を要する。多少の緊張もする。

『Yes, Virginia, there is a Santa Claus.』

  "Please tell me the truth; is there a Santa Claus? 中村妙子 訳『サンタクロースっているんでしょうか?』偕成社 「今から百前あまり前に、8歳の女の子 ヴァージニアは、ニューヨークの『サン新聞』に、『サンタクロースっているんでしょうか?』と尋ねました。この問いかけに対し、フランシス・P・チャーチは、1897/12/21 付の社説で応えました。全米で話題となり、日本では偕成社より出版され、ロングセラーになっています。」 Yes, Virginia, there is a Santa Claus. 上記のサイトで英語で、また日本語訳で全文を読むことができます。ぜひご覧になってください。 私は学生時代にコラムで知りました。何冊かを買い、プレゼントしました。Amazon で見ると「ベストセラー1位」になっています。何十年ぶりかに読み返しました。 Yes, there is a Santa Claus.

「古代人の思考はよく『古代人』が聞き分ける」

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書  南島で出会った精霊たちは、折口の考えてきた「古代人」の思考そのままの現れ方をした。島の人々は「あの世」が海の彼方(かなた)のニライカナイにある、と考えていた。ニライカナイとは「根の島」という意味で、そのまま「魂のふるさと」「魂の根源の場所」を意味していた。人が亡(な)くなると、その魂はニライカナイに戻っていく。またそこは生命の根源の場所で、ニライカナイにつながっていないと、「この世」は生命の輝(かがや)きをなくしていく。しかし、生きている人間はめったなことでは、この海の彼方の「あの世」に行くことはおろか、触れることすらできない。だから島の人々は、「あの世」からの来訪者である「まれびと」の到来(とうらい)を待ち望んでいるのである。  仮面を着装し、植物で全身をおおった精霊が、いかにも「まれびと」らしく、一年に一度だけの決まった日に、村の裏にある洞窟(どうくつ)や森の奥から、島の人々が緊張(きんちょう)しながら待ち受ける神聖な広場にあらわれてくる。ざわざわざわざわとからだを揺(ゆ)すり、踊(おど)るように舞(ま)うように、「まれびと」が目の前にあらわれると、人々の興奮は頂点に達し、精霊と一体になった人々の心のなかには、「あの世」との通路がひらかれる。生きている者と死者たちの霊とは一体となり、過去と現在と未来がひとつになったような、不思議な時間の感覚があたりを包み込む。(47-50頁) ◇ まれびと:折口信夫の用語。海のかなたの異郷(常世)から来訪して、人々に祝福を与(あた)えて去る神。  折口信夫は「目撃」したのである。そして、 「わたしはいまの世で成功する者とはなりえない人間だ。なぜならわたしは精霊とともに生きる一人の古代人であるのだから」(60頁) と、「一人の古代人」を自任する折口は、古代人さながらに霊気に当たり、古代人さながらに精気に浸ることによって、すべてを身にひき受けたのである。 「まれびと」は折口信夫の詩人的な幻想(げんそう)などではなく、たしかに実在していたのだ。  沖縄諸島への旅から戻った折口信夫は、矢継(やつ)ぎ早(ばや)に、日本の文学と芸能の「発生」を論じる、重要な論文を発表していった。「まれびと」はこうして、日本人の神観念の原型をしめしているばかりではなく、折口信夫の学問と思想の全体を...

折口信夫「冬至の日に,精霊ふゆる『ふゆ』」

中沢新一『古代から来た未来人 折口信夫』ちくまプリマー新書 「とても興味深いことに、「まれびと」論や芸能発生論ではもっとも重要な季節が冬至(とうじ)と夏至(げし)の季節におかれていたのに対して、『死者の書』(折口信夫著)で描きだされた新しい他界論では、春分と秋分の季節がもっとも重要な季節になっている。第一章で述べたように、冬至と夏至には、昼と夜の長さが極端(きょくたん)にアンバランスになり、そのときを選んで死者の霊が、生者の世界を大挙して訪問してくるのである。そのとき「あの世」との通路が開いて、仮面などで姿を隠(かく)した精霊が、舞(ま)いながら「この世」にあらわれてくるのだった」(86頁) ※ まれびと:折口信夫の用語。海のかなたの異郷(常世)から来訪して、人々に祝福を与(あた)えて去る神。 精霊ふゆる「ふゆ」 「多くの祭りが、昼と夜の長さがもっともアンバランスになる冬至と夏至に集中しておこなわれる。  この冬至と夏至をはさんで、「古代人」は精霊(スピリット)をこの世にお迎(むか)えする祭りをおこなう。夏至をはさんだ夏のお祭りの期間には、死霊(しりょう)のかたちをとった精霊の群れが、生きている者たちの世界を訪問してくる。死霊には、まともな死に方をして、しかも子孫たちから敬われつづけている先祖の霊もいれば、横死をとげた幼い子供のうちに亡(な)くなってしまった者たちの浮かばれない霊もいる。そういう多彩(たさい)な死霊たちが大挙して戻ってくるのを、「古代人」は心をこめてお迎えしようとしたのである。  その夏の時期の精霊来訪の祭りは、のちのち仏教化されて、お盆(ぼん)の行事となったけれど、そこには「古代人」の思考の原型がはっきり残っている。お盆の行事としておこなわれる「盆踊(おど)り」を見てみよう。 (中略)  冬至をはさんだ一、二か月は、その昔は霜月(しもつき)と呼ばれて、やはり精霊を迎える祭りがおこなわれた。しかし冬の期間におこなわれるこの祭りでは、夏の精霊迎えの祭りとはちがった考えが支配的だった、というのが折口信夫の考えである。この期間、精霊の増殖と霊力の蓄(たくわ)えがおこなわれるのである。折口信夫の考えでは、「冬(ふゆ)」ということばは、古代の日本語に直接つながっている。「ふゆ」は「ふえる」「ふやす」をあらわす古代語の生き残りなのである。  冬の期間に「古代人」...

TWEET「解体・整地工事の終了」

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 2024/12/05 解体・整地工事のすべてが終了した。 「我が 死に支度の嚆矢」を終えた。   「 嚆矢 」の続編へと、早々に歩を進めたいが、何事につけ業者さん主導であり、待つことしかできないのがもどかしい。私ひとりでは、なにもできない証である。  家屋の下積みになっていた表土が、いま冬の陽を浴びている。健全な眺めである。同敷地内に建つもう一棟の木造家屋もこの際 解体し、更地にしてしまいたいという衝動がある。 “善事” のためにはホームレスも厭わない、ということである。  断片が続きます。

TWEET「解体後の今日」

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 昨夕、解体工事のすべてが終了した。 2024/11/30   解体業者「信頼」さんの、トルコ・イスタンブールご出身の二人の男性を中心とした、丁寧なお仕事ぶりに感心している。  解体工事の およそ 6割あまりは、廃棄物の分別であることを知った。飽くことなく、丹念に仕分けしていただいたことにも感謝している。  懸念の解体を終え 明けて今日、感傷はなく、清々しい心持ちでいる。  以下の写真の、細長い側溝の蓋の部分が、かつての勝手口である。    蓋の上に立って、いまは無き屋敷内のあれこれに思いを馳せている。  ちなみに側溝の蓋は、私が無理をいって、ムスタファさんに急ごしらえしていただいたものである。  明日からは、盛り土の運搬がはじまる。  更地は思いのほか美しい。同敷地内に建つもう一棟の木造家屋もこの際 解体し、更地にしてしまいたいという衝動がある。 “美” のためにはホームレスも厭わない、ということである。  また、同じイスタンブール出身の、「自分を見つけに、日本にきました」と言った、16歳の優秀な少年 エレンの行末が気になっている。  断章が続きます。

TWEET「蹂躙」

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    容赦なく自宅が蹂躙(じゅうりん)されていく。言葉は悪いが、やはり私の眼には、そのように映って止まない。  かろうじて、 玄関が、応接間が残り、縁側が、そしてトイレが、井戸が残されている。  昨日の終業時のことである。  二人のトルコ人男性のたくましさが際立っている 。日本人労働者の優に倍は働く。骨惜しみせず、重機も操る。  それは ブラジル人青年たちの “足場屋さん” についてもいえることである。  解体業や鳶職の世界は、既に外国人労働者の方たちによって、席巻されつつあるような気がしてならない。  断片が続きます。

TWEET『レ・ミゼラブル』

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『噫(ああ)無情』  昨日の終業時の画像です。  木屑の山です。  断章が続きます。

TWEET『むざんやな」

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 2024/11/12 から自宅の解体工事がはじまり、今日 はじめて重機が入りました。 むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす          芭蕉 「無念です」 「作業終了後」    私はさしずめ、「甲の下のきりぎりす」です。  断片が続きます。

TWEET「いよいよです_2/2」

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 解体工事 前日の今日、最後の最後に、 電気メータと電線を撤去していただきました。  日が暮れようとしています。  断章が続きます。

TWEET「いよいよです_1/2」

   昭和33年に建てられた木造二階建ての家屋の解体です。四世代にわたって生活した、思い出もあり、思い入れ もある建物です。  一昨日 同敷地内の別棟に引越ました。  以下、岡本建設さんによる解体工事の日程です。 2024/11/12 〜 2024/11/30 長丁場です。  最後に、いつになく入念に掃除をしました。  日付が変わると同時に電気が停まりますが、12日の朝まで旧宅で過ごします。名残は尽きず、感傷的になっています。  断片が続きます。

TWEET「面壁九年」

 2024/08/18 から「般若心経」を唱えはじめたことは、たびたび書いたが、昨夕、読経後に訪れる「瞑想」の時間が、絶え間なく続き、 戸惑った。はじめてのことだった。しかし、 考えることに支障をきたし、狂気の世界の人になるかもれない、と戦々恐々としていた。  今日は「瞑想」の質が格段に向上し、「常態」と「瞑想」の往還が自在にできるようになった。椿事である。日常生活において、意のままに「瞑想」の時間がもてるということは望外の喜びである。 「般若心経」を唱えることの功徳を思う。 しかし、いまだ表層意識内のことである。  達磨大師の面壁九年にあやかろうといえば、不埒か。  断章が続きます。

TWEET「月がとっても青いから」

   月を見るのが好きだった。 「栂尾・高山寺」 2020/10/31 あかあかやあかあかあかやあかあか(表記は「くの字点」です)やあかあかあかやあかあかや月 山のはにわれもいりなむ月もいれよなよな(表記は「くの字点」です)ごとにまた友とせむ  上記の二首はいずれも明恵上人の詠まれた歌です。横書きでしか表記できないのが残念です。  満月の夜でした。明月が山の端から昇るのを、寒さに震えながら待ちました。 「高野山・金剛峯寺」 2021/11/19 「部分月蝕(満月)」 「 今回は部分月食とはいえ月の直径の98%が隠れるため、ほぼ月全体が隠れる皆既月食に近く、 今回と同じように、『 限りなく皆既に近い部分月食』が日本全国で見られたのは、140年前(1881年12月6日)までさかのぼります」 との記載があった。またとない朗報だった。 「栂尾・高山寺」,「高野山・金剛峯寺」前の駐車場から仰いだ月が、特に印象に残っている。  しかし、この一年あまり、夜空を仰いだ記憶がない。月のこともすっかり忘れていた。ところが、2014/09/18 の夕刻過ぎのことだった。月は私の目の前にあった 。満月の夜だった。不意のことにあわてた。この一年あまりの自分の不甲斐なさを思ったとき、「青い月」は、眩しくて見やることができず、あらぬ方(かた)に眼をやった。  月を思う契機となった。はじめから明月の鑑賞はつらい。新月から順を追って、お月見の習慣を取り戻そうと思った。  検索すると、私の望んだ満月は、「中秋の名月」の翌日の月だった。なにか因縁めいたものを感じた。だしぬけに「中秋の名月」でなく、救われたような気がした。  北の夜空の、北極星を中心とした天体ショーも恋しい。  断片が続きます。

TWEET「無為は転落す」

   有為は転変し、 有為は無常であるが、無為 は瞬時に転落する。 無為であり続けることは困難を極める。 「般若心経」を唱えた後に訪れる瞑想中でのことである。雑念が浮かぶと、経文の一節を思い、払拭することにしている。 「般若心経」が説く「空」と、「禅」のいう「無」の相違は、一応 心得ているが、それがたとえ、「生々とし た世界」で あろうとも、「無の意識さえ消失した世界」であろうとも、ともに、我もなく他人(ひと)もなく、鎮まった世界であることに違いないだろう。 「願いごとはない。  思い はただ、「般若心経」と一如になることである。 「般若心経」を唱えるかすかな、声ともつかないような、意味をともなわない経文を、前頭葉が 聞くともなく聞いている。私の自足した平安な「般若心経」体験である。しかしいまは、それもわずかな時間のことでしかない(2014/10/11)」 「思い」はずいぶん改善した。読経の質が瞑想の質を決めることも理解した。  倦まず弛まず孜々(ここ)として、 「私の仏道修行」はいま、緒に就いたばかりである。  断章が続きます。

TWEET「金木犀」

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 今回の自宅の解体工事では、庭もすべてつぶし、更地にする予定でいる。  昨日の午後、玄関を出ると、金木犀の匂いが漂っていた。  今秋が最後である。  金木犀は知ってか、知らぬか、いつになく意気盛んであった。そうと知ってか、知らぬか、「死花」を咲かせているのかもしれない。 「糸に学ぶ―田島隆夫」 白洲正子『日本のたくみ』新潮文庫 「結城の在に名人のお婆さんがいて、死ぬ前に寝床の中でひいた」という「死花」(202頁) のことを思いつつ 、しばらくの間、金木犀の香りに包まれていた。  あちこちから金木犀の匂いがする。金木犀の花期である。いままで、そんなことさえ思わずにいた。  札幌では、地植えの金木犀は枯れてしまったという、また家内に置いた金木犀も葉が落ち、数輪の花をつけたのみ、とのことである。  弟の金木犀への郷愁は意外だった。  また、床の間にある、飾り棚の “竹”が欲しい、という。こちらも意表を衝かれた格好である。 「飾り棚の竹」  人の数だけ思い出の品があり、郷愁がある。  解体工事は、11月の上旬に決まった。 追伸:竹には巧みな細工がしてあった。 「ふた節(白い部分)が天井の内にあり、先端には針金が巻きつけてある」 「もぬけの殻(天井部)」 「飾り棚」 「穴の中には釘の先が見える」 「飾り棚をはさんだ継ぎ目。2本の竹から成っていた」 「殺伐としています」  もちろん解体工事はこれしきのことでは済まず、残酷である。  断章が続きます。

TWEET「大野晋に “御足労”を乞う」

「御足労」,「御苦労」の混同・誤謬を、時折 見かける。 昨日も眼にした。  以下、「御足労」の意である。 『精選版 日本国語大辞典_iOS アプリ』 ご‐そくろう ‥ソクラウ【御足労】 〘名〙 (「ご」は接頭語) 相手を敬って、その人にわざわざ来てもらったり、行ってもらったりすることをいう語。 *錦木(1901)〈柳川春葉〉九 「然うでしたか、其は何とも御足労ゴソクラウでした」 これを機に、以下、「再掲」です。 TWEET「精選版 日本国語大辞典_iOS アプリ」 2022/08/01  もう10年ほど前になるのだろうか。興味本位で電子辞書を買ったが、一覧性に欠け、不自由で、間もなくさしあげてしまった。  カシオの電子辞書には、 ◆「 精選版 日本国語大辞典」小学館  が収録されていて、魅力的だったが、購入するまでにはいたらなかった。  2017/01/17 に、 ◆「精選版 日本国語大辞典」(iOS アプリ) が、リリースされた。発売当初には破格のお値段だった、と知り、また購入したのは、2020/02/23 のことだった。8000円だった。だいぶ出遅れた感を抱いた 。 ◆ 『精選版 日本国語大辞典(紙)』小学館 は、3分冊の大部な辞書で、各冊 16500円の定価がついている。 なお、 ◆『日本国語大辞典(紙)』小学館 は、13巻と別巻1冊からなり、 各巻 16500円である。  その後、間もなく、 ◆「日本語シソーラス 第2版」 (iOS アプリ) ◆「角川類語辞典」 (iOS アプリ) ◆「三省堂 類語新辞典」 (iOS アプリ) をインストールした。作文には、言葉をさがし、言葉を言い換えるために、類語辞典(シソーラス)が不可欠である。  なお、上から三つのアプリは、「物書堂」さんの仕事であり、同じアプリ(「辞書 by 物書堂」)内に移動すれば、横断検索ができ、便利である。  コレクションとして購入したが、 意外にも、使用頻度が多く、重宝している。  また、ネット上の「コトバンク」さんの急進ぶりには、目を見張っている。際限なく成長し、どこ を目指しているのか、不気味な存在である。ただ、不愉快な広告が多いのには、閉口している。 当然、 ◆「精選版 日本国語大辞典」  も表示されるが、やはりダウンロードした「 iOS アプリ」に分がある。  ご自身...

TWEET「私の仏道修行」

  2024/08/18 から「般若心経」を唱えはじめ、いまでは「私の『般若心経』修行」の観を呈してきた。  願いごとはない。  思い はただ、「般若心経」と一如になることである。 「般若心経」を唱えるかすかな、声ともつかないような、意味をともなわない経文を、前頭葉が 聞くともなく聞いている。私の自足した平安な「般若心経」体験である。しかしいまは、それもわずかな時間のことでしかない。   今後、「般若心経」 を唱え続けることで、新たな感懐を抱くようになるだろう。それは楽しみであり、望みでもある。  読経後には必ず、決して短くない、 瞑想のときが訪れる。無私で満ち足りた時間である。瞑想は不意に訪れ、突如去るものとばかり思っていたが、違った。誦経後に不用意に動くと、瞑想の時間がだいなしになる。  読誦の質が、瞑想の質を決めるような気がしてならない。 「私の仏道修行」を続けます。  断章が続きます。 追伸: 「無私」,「自足」の二語は、小林秀雄を解くキーワードである。

TWEET「かつ消えかつ結びて」

 以来、事あるごとに「般若心経」を唱えている。いささか偏執狂的である。  口をついて出てくる経文は、「かつ消えかつ結びて」、時の流れ、 “いま”という刻を感じる。  捕らえどころのない “いま”を手中にするには、「般若心経」に沈潜するしかないだろう。沈潜するとは、「色こそ空なれ」,「空」となれ合う ことである。  私は、「かつ消えかつ結」ばれる経文の一音節を、聞くともなく聞いている。  そしてまた、2023/06/06(鑑真和上の命日)に唐招提寺の本堂で昌和した、いのちの生動の調べとでもいうべきリズムに身を委ねている。 「明の董其昌が『画禅室随筆』のなかで、「いわゆる宇宙、手に在るもの」というゆえんであろう。禅や念仏は、その場合手中に生動する宇宙・自然のいのち(無量寿)を呼吸するパイプにほかならない」(『墨美 山本空外 ー 書と書道観 1971年9月号 No.214』墨美社 8頁)  わずか18日間の「般若心経」体験ではあるが、確かにこころに響いている。「いささか偏執狂的」であり続けることに意義がある、と思っている。  断片が続きます。

TWEET 「ヌスビトハギ」

 ヌスビトハギは、可憐な花を咲かせる。  そしていち早く、我が家の庭に秋の訪れを告げる。  が、花期を終え結実すると、 “ひっつき虫”になり、どこにともなくひっつき、たいへんな思いをすることになる。  一昨日と昨日の夕方、花期を迎える前の、 ヌスビトハギを刈った。花を愛で、結実する前に刈るのが風流を解すというものだが、私にはその器用さがない。 全身 “ひっつき虫”に取りつかれた、自分の姿を想像するのはみじめである。 「和名は、果実が泥棒の足跡に似ると言う。奇妙に聞こえるが、牧野富太郎によると、古来の泥棒は足音を立てないように、足裏の外側だけを地面に着けて歩いたとのことで、その時の足跡に似ている由。これは牧野富太郎による説」(ウィキペディア)  泥棒の抜き足差し足、ということか。 「萩(はぎ)の花くれぐれ迄もありつるが月出でて見るになきがはかなさ」  実朝の歌は美しい。  断章が続きます。

TWEET「月あかり」

「うちの店では、すべて純国産の『東海製蝋 』さんの蝋燭だけを置いています」 と、「田辺佛具店」さんに、燭台を求めにお邪魔した際にお聞きした。一年あまり前のことだった。蝋燭といえば「カメヤマローソク」とばかり思っていた私には意外だった。  その後、しばらくの間,「東海製蝋」さんの蝋燭と戯れた。 「月あかり」は、美しい。 「専門店向け。当社の最高級ブランドです」 「品質は高融点、高純度の原料を使った最高品。衣裳(意匠?)は伝統的な風合いと彩りを基調に、あくまで純和風に仕上げました」 「高融点」とは燃焼温度が高く、「高純度」とは、炎は蝋本来の輝きを放つということであろう。  私の手元には、小さな細身の「月あかり十分」しかないが、純白で硬質で、他の蝋燭 との違いは明らかである。炎は細身の蝋燭 と調和し気品があり、直立し揺らぐことなく鎮まっている。また、その透明感のある灯りは上品である。 「 月あかり」の名にふさわしい逸品である。  今回 はじめて 、蝋燭の “灯し比べ”をした。 「月あかり」,「雪だるま」,「華むらさき」,「星のしずく」,「キューブ・テン」, 名は体を表す。蝋燭職人の方たちの想いが名前に反映されていることを知らされた。  父の買い置きの蝋燭と線香がある。「月あかり」を知ったいま、始末屋の私としては、始末するほかない。また、微煙・微香の線香は線香とはいえず、こちらも始末し、たとえば、東大寺参詣時に、興福寺、唐招提寺、室生寺参詣時に求めた線香を焚こうと思っている。  仏壇に供える日用品だからこそ、大切にしたいと思う。  断片が続きます。

TWEET「お仏壇のお引越し」

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 2024/08/24,「田辺佛具店」さんに、仏壇を移動していただいた。  いたって丁寧な仕事ぶりだった 。専門家にお願いして正解だった。  仏間の背面には、包装紙にくるまれた、3枚の板状のものが立てかけられていた。包装紙を解くと、旧い仏壇の、観音開きの一対の扉と、一対の引き戸が出てきた。祖父と父が作ったものである。30年あまりにわたって慣れ親しんできた仏壇の名残だった。  祖父と父の心中を察すると忍びないが、始末屋の役割を振られた私としては、始末するほかない。  しかし、いくら「即断即決」といい、 「メメント・モリ」 といいつつも、お仏壇だけに、遺品として大切に仕舞っておこうかと思い はじめた。仕舞うのではなく、祖父の手製の文机を、いま 「般若心経」を唱える際の経机として用いているが、その前に据えるのが適当か、と思いつつある。  断章が続きます。

TWEET「早々の台風見舞へのご返礼」

こんにちは。 (愛知県豊橋市では)14時を過ぎたころから、風が出ました。大降りの雨が、東の窓に吹きつけています。縁側の雨戸だけ閉めました。 (台風10号の)進路予想を見ていますが、直撃に近かったり、北寄りだったりと予断を許しません。 (自宅の)解体工事を目前に控えたこの時期に、何事もないことを祈るばかりです。 (愛知県)蒲郡市の土砂災害時には、当地では激しい雨は降っておらず、意外でした。 お心づかい、またご心配、どうもありがとうございました。 くれぐれもお大事になさってくださいね。 ご自愛ください。 勇夫  断片が続きます。

TWEET「阿弥陀仏」

 学生時代から「哲学としての宗教」についての書をずいぶん読んできた。が、還暦を過ぎたいま「宗教としての哲学」への転換期か、と感じている。「宗教としての哲学」には実践がともなう。   2024/0 8/19 以来, 「般若心経」をことあるごとに唱えて いる。ゆったりと丁寧に、声が脳内に反響するようにして、一度に三回ずつ誦んでいる。読経後には平安が訪れるが、それもやがて去る 。平安の内にあり続けるために、称名を唱えるように唱えている。いささか偏執狂的である。 山本空外は、 「法然上人は大小乗の全仏教を体系化して、念仏の一語にしぼり込んだのである。それは日本の宗派仏教で説く念仏ではない」 と明言している。 そして、 『墨美 山本空外 ー 書論・各観 1979年7月号 No.292』墨美社  「たとえば良寛和尚(1757-1831)のごとき、その書は禅僧として随一のこと周知のとおりであるが、さすがにいのちの根源ともいうべき阿弥陀仏と一如の生活に徹していたのであろう。道詠にも、  草の庵ねてもさめても申すこと 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏  不可思議の弥陀の誓ひのなかりせば 何をこの世の思ひ出にせむ  我ながら嬉しくもあるか弥陀仏の いますみ国に行くと思へば などがある。これは曹洞宗の禅僧としては、むしろ当然でもあるというのがわたくしの見解でもある。 (中略)  前掲『書と生命』冊中にも、良寛とともに、弘法大師(774-835)・慈雲尊者(1718-1804)の書も併載されたが、じつにやはりいのちの生動するところ、大師にも  「空海が心のうちに咲く花は 弥陀よりほかに知るひとぞなし」 という道詠があるとおり、その花が書として形相をあらわしたわけで、いのちの根源としての阿弥陀との一如に根ざすとしか思えない」(39頁) と書いている。  なお、山本空外、岡潔は、山崎辨栄(べんねい)上人(浄土宗・光明派)に帰依し、湯川秀樹は山本空外上人に帰依している。こういった慎重さ、保証がなければ、臆病な私は宗教(仏教)には近づけない。 龍飛水編『廿世紀の法然坊源空 山本空外上人聖跡素描』無二会 また、空外先生は、 「法然上人は生きていることの原点をナムアミダブツと一息でいえる言葉に見出した。今わたくしが生きている深い内容を一息でいえる言葉、一語で全仏教をおさめ得る言葉は、言語学の上からもナ...

TWEET「氷室神社」

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 2023/06/21 興福寺から東大寺・法華堂に向かう途中、東大寺のほど近くに「氷室神社」を見つけた。興味本意で参拝した。  奈良はかき氷が有名である。 「 奈良時代、平城遷都にともなう勅令によって」「 毎年4月1日より9月30日まで」「 献氷(冬の間に作られた氷を宮中に献上すること)が行われるようになり、奈良の地には氷池や氷室が多く造られました」 「氷室神社」はその本社である。 「氷みくじ」があり、 「 氷の上におみくじをのせると文字が浮かび上がる 」  また、コロナ禍のこととて、 の御札 が掲げられていた。  2023/06/25  駐車場から「女人高野 室生寺」に向かう途中、「喫茶 むろう」さんに寄り、かき氷を食べた。メニューはお任せした。宇治抹茶金時が運ばれてきた。 「鉋(かんな)の歯を使っています」 とのことだった。きめ細やかな薄片の氷が幾重にも重なっていた。急いで食べても頭が痛くならず、不思議だった。店主に聞くと、 「井戸水を使っていますから。皆さん、そう言われます」 とのお応えだった。鉋の歯にも秘密があるように思えてならなかった。  同じ町内にある「餅昌」さんで、かき氷をいただいた際にも頭が痛くならなかった。尋ねると、 「きめ細かな氷に空気が程よく含まれていますから、でも頭が痛くなるときもあります」 と奥さんは笑っていた。  また、「デニーズ」さんのメニューには、 「デニーズのかき氷は、不純物のきわめて少ない最高純度の「純氷」を使用し、やわらかな食感と繊細な口どけにこだわりました」 「純氷とは?」 「非常に純度の高い水を、時間をかけてゆっくりと凍らせた氷のこと」「 ふわふわとした繊細なくちどけをお楽しみください!」 と書かれていた。試食しないわけにはいかなかった。頭は痛くならなかった。店長さんに話すと、店長さんは、こめかみを人差し指で指し、笑みを浮かべていた。はじめて知った風だった。 「氷室神社」参拝以来、かき氷通になったかといえば、そうでもない。  断片が続きます。

TWEET「般若心経」

 昨日の午後、久しぶりに「般若心経」を唱えた。何遍か誦んだ。その後には、脳内にかかった靄が晴れた。思惟することを忘れ、平安の内にあった。考えることの功罪について、いま思いを巡らせている。 ◆ 玄侑宗久『現代語訳 般若心経』ちくま新書 の帯には、 「意味から響きへ、理解から感応へ。 262文字のこころを体感する。 いのちの 全体性へ。」 と書かれている。「意味」や「理解」ではなく、「響き」であり「感応」であり「体感」である。  2023/06/06(鑑真和上の命日)に唐招提寺の本堂で昌和した、いのちの律動の調べとでもいうべき「般若心経」との出会いは尊かった。これらはいのちの脈動に和すればこそ、かなうことだろう。たいへんな体験だった。  忘れものを見つけた。それは思い出しさえすればよかった。大切なものは、やはり目には見えなかった。  断章が続きます。

TWEET「Rider 420」

 2024/03/26,「Amazon」で、「Bryton」のサイクルコンピューター(サイコン)「Rider 420」を購入した。サイコンとは自転車に特化したナビ(ゲーション)のことである。  確かに「Google Maps」は優秀なアプリだが、長時間の使用に耐えない、防水性に欠ける 等、こと自転車にかぎっていえば、使い勝手が悪い。 「Rider 420」の画面上では、出発地と目的地が一本の線で結ばれる。背景はない。後はトレースしていくだけである。いたってシンプルであるが、自転車では、このシンプルさが優位に働く。 「Rider 420」は、通行量の少ない路を指し、勾配の緩やかな坂道を示す。はじめての道、道幅数メートルの抜け径を指示することもある。やはり 「Gooole Maps」とは設計思想が違う。  裏道・裏街道を走るの は楽しい。思わぬ見つけものもある。  常に裏道を歩いてきたつもりでいたが、まだまだ裏には裏があることを知った。  断片が続きます。      

TWEET「風に吹かれて」

 ペダルを回せば風が生じる。私はこの風に吹かれるのが好きだ。下り坂はもちろん、平坦な道でも、私はあまり自転車をこがない。移動は慣性にまかせて、風を感じている。  今日の午前中には、買い出しに、いつもと同じ道をいつもと 同じ順路で、「(フォールディング・eBike)Vektron S10」に乗っていった。風に吹かれることが目的だった。たいへんな時間がかかったのは当然のことである。  酷暑の最中(さなか)に吹く風は熱風であるが、それでも風に当たりたいと思う。風に吹かれていたいと思う。  断章が続きます。

TWEET「毒には毒を」

2024/08/11 には、 TWEET「(クロスバイク)シャイディク TR-X」 を書き、その翌日には、 TWEET「( フォールディング・eBike) Vektron S10」 を書いた。 「Vektron S10」を折りたたんで遊んでいると、急に出かけたくなった。そして、自転車での気ままな散歩(ポタリング)を楽しんだ。 昼下がりの最も暑い時間帯のことだった。 気づくと、施錠を忘れ、草履ばき、財布もスマホもチェーンロックもなにかも持たず空手だった。喉を潤すこともできず無防備だった。  帰宅後,「Vektron S10」から「シャイディク TR-X」に乗りかえた。今回はポタリングではなく、田辺仏具店さんに仏壇の引越しをお願い することと、故あっての連日の お墓参りという明らかな目的があった。  帰路、500ml のミネラルウォーターを セブンイレブンで買い 、店先で飲み干した。  毒を以て毒を制す。  酷暑を以て酷暑を制す。  酷暑対策には、酷暑の内に積極的に身を置くという懐柔策もあることを知った。  移動手段としてだけの自転車ではとてもできない荒業だった。遊び心のあるバイクを選択し正解だった。  断片が続きます。

TWEET「私の文章作法」

 私の「文章作法」を端的にいえば “無作法”ということになる。  文章の題名から梗概までを、常に仰向きに寝て考えている。ものぐさであり、無作法である。  こうして粗筋でき上がると、やおら起き上がり、後は PC に向かって文章にするだけである、かといえば、そう上手くはいかない。文章は思いもかけない方へ飛び火し、展開していく。その度に煮詰まり、無作法に無作法を重ね、天を仰ぐことになる。  文章が次第に形をなしてくると、さすがの私も居ずまいを正さざるを得なくなる。文章を概観する必要が出てくるからである。  結びの一文を考える際に、仰向きになることはまずない。無作法と縁を切る時節である。  その後には、 際限 のない推敲が待っている。時を稼ぐこと。力みのない、弛緩した体で臨むことが「私の推敲作法」である。  断章が続きます。

TWEET「Vektron S10」

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 2024/03/12,「スポーツデポ 豊橋店」で、「tern」のフォールディング・eBike(折りたたみ式・電動アシストユニット付きスポーツバイク)「Vektron S10 マットブラック」を購入した。2台目のバイクである。    店長さんのHさんご夫妻も乗られ、サイクリストの聖地「しまなみ海道」や「浜名湖一周」等々のサイクリングを楽しまれているという安心感があった。「10万円キャッシュバックキャンペーン」中のことだった。 前項の  TWEET「シャイディク TR-X」 で、「変速機さえ調節すれば、上り坂でも、ほとんど脚に負荷がかからない」と書いたが、所詮「仕事の原理」からは免れることはできず、ペダルをくるくる回す必要がある。しかし 「Vektron S10」は、平坦な道を走るかのように、ハイギアで上り坂を登ることができる。   “脱クルマ” を目指しているが、暑いの寒いの、雨だの風が強いだのといっていて は到底かなわない。  酷暑のいま、玄関に2台の真新しいバイクが、お行儀よく並んでいる。それは、中古自転車の展示コーナーでも見るかのようである。  断片が続きます。

TWEET「シャイディク TR-X」

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 2023/05/12,「モンベル 浜松店」で、クロスバイク「シャイディク TR-X アイボリー」を購入した。  詳細は後日に譲るが、駆動部の摩擦係数はゼロにちかく、変速機さえ調節すれば、上り坂でも、ほとんど脚に負荷がかからない。「バイク」と「自転車」とは似て非なる乗り物だと感じた。 「駐輪する際には、必ず『サイクルライト』を取り、TR-X は前輪を外せますので、前輪と車体を『チェーンロック』で留めてください。そうしないと盗まれます」 とAさんは言った。 「それだけですと、自転車ごと盗まれる恐れがありますので、道路標識や駐車場の柵などに、別の『チェーンロック』で 留めて(地球ロックして)ください」 「それでもチェーンカッターで、『チェーンロック』を切られたり、部品を盗まれたりします」 Aさんの説明は微に入り細に入りしていたが、 「では、どうすれば盗まれないんですか」 と聞くと、 「運だけです」 との明快なお答が返ってきた。  運を味方につけるには心がけ次第、ということか。  そこそこのクロスバイクなので、そこそこの心がけで間に合うだろうと勝手に決め込んでいるが、私には、その「そこそこ」が難しい。  断章が続きます。

TWEET「変食」

 同じ道を同じ順路で、毎日車で巡っている。私の買い出し、私の生活道路・私の塩の道である。  毎日同じものを仕入れ、同じものを食し、という食生活を送っている 。この極端な偏食は数か月の間続くのが常である。そして、新たな “変食” がはじまる。  が、インスタント食品、惣菜、調理パンの類は口にしない。これでも少しは健康に気を使っている。ちなみにいまの食の内容は、 ◇「鞍馬にぎり」の「うめ」× 2個  ◇「北海道八雲町牛乳(生乳100%使用、成分無調整)」 ◇「小岩井 生乳100% ヨーグルト(400g)」 ◇「国産(中粒納豆)」(全国納豆鑑評会 最優秀賞・第25回 R2.2.21 熊本大会) である。  それに嗜好品として、 ◇「ファミリーマート」の「アイスコーヒーM」と 「Peace SUPER LIGHT」 が加わる。  栄養のバランスを欠くことは承知しているが、いまのところ健康体でいる。栄養素には補完作用があるのだろうか。  それに加えて、 鯨飲馬食。たとえば 「小岩井 生乳100% ヨーグルト(400g)」を、1日に3つ、4つと食す日がある。お通じはよくなるが、下痢をしたことはない。他の食物についても、ときに暴飲暴食をしている、といえば変食も本物だろう。  私は変食を礼賛しているわけではない。ただ世の中には、 変食を満更でもないと考えている輩がいる ことを、知っていただきたかっただけのことである。  断片が続きます。